センパイと一緒。 その3
6
腑抜けだった。僕は腑抜けになっていた。
なにをすることもできず、なにをする気にもなれず、ただ力なく床の上を転がる日々。なんであんなこと言っちゃったんだろう。思ってしまえばおしまいだ。ごろごろごろごろ転がって、そのまま階段から落ちていっそのこと死んでしまいたい。
なにもかも自分が悪いのだ。全部、自分のせいだ。もう土下座して謝りたい。ずるずるとアスファルトに額をこすらせて、そのまま地球の反対側まで行ってみたい。問題は途中に海があることと、どこを探したって謝る相手なんていないことだ。
僕はもはや死んでいた。生き返りたくなかった。
とはいえ、僕だってもういい歳だ。
心の中の懊悩を、外にまでひけらかしたりはしない。
あれから。
あの告白の日からこっち、僕は自分でもびっくりするほど大人だった。もうどこを切っても「大人」と書いてある金太郎飴のような精神で、気まずいあれこれを乗り越えた。もはやあだ名は大人だ。遠藤と書いて大人と読め。それくらいの勢いで、僕は自分の告白をうやむやにすることに成功したのだ。
しかし、そんな僕を補って余りあるくらいに、先輩は子供だった。
深夜や早朝のシフトの場合、お客さんがいなくなったら休憩をしていいことになっている。僕と先輩は早朝に一緒の時間を働くわけで、つまり一緒に控え室で休憩することになる。これまでは、そうだった。
しかし先輩は、ノーゲストになっても控え室に戻ってこなくなった。何もすることがないにもかかわらず、誰もいないフロアに一人、佇んでいたのだ。
なんでそう不器用なんだろう。
僕は先輩らしくない、それでいてやっぱりどこまでも先輩らしいその行動に、思わず苦笑するしかなかった。でもその笑いはどこか薄ら寒いものにしかなりえず、自分の情けなさにげんなりした。
僕と先輩は、再会して以来、実のある会話をしてこなかった。そして、いまとなっては実のない会話すらできなくなってしまったのだった。
午前七時。今日も今日とて、先輩は控え室に戻ってこない。
もちろんまったく言葉を交わさないわけではない。朝の挨拶くらいはするし、仕事上のやり取りだって普通にある。
しかし先輩は僕の前で地図帳を開かなくなったし、僕も大して面白くもない面白話をすることはなかった。
控え室で一人、僕は自然と自分の心と向き合うことになる。
先輩が好きだった。
もう隠すことなんてない。胸を張って、ついでに声も張り上げて、堂々と宣言したいくらいだ。東京ドームに五万五千(主催者発表)の観客を集めて、その前で発表しよう。武道館にオーディエンスを集結させて、その前で熱唱しよう。曲目は「抱きしめたい」。ビートルズじゃなくてMr.Children。まあ、二曲目は「Over」になるんだろうけど。ちなみに切ない別れの曲。
先輩が好きだ。もうどうしようもないくらい好きだ。好きで好きでしょうがなくて、むしろいらいらしてぶん殴りたくなるくらい好きだ。
好きって気持ちに重さがあるとしたら、僕のそれは超新星より重い。好きって気持ちに強さがあるとしたら、僕のそれはヒョードルよりディープインパクトより強い。僕の先輩を想う気持ちに意味があるとしたら、それは先輩を幸せにするためにものだ。そして僕が幸せになるためのものだ。
先輩がいなきゃ、生きていてもしょうがない。先輩がいなきゃ、あらゆるものはくだらない。先輩がいなきゃ、僕はここにいる意味がないのだ。
だから僕は、先輩に会いたくなかった。
好きで好きでどうしようもなくて、だからこそ、こうなってしまうことはわかりきっていた。ぐちぐちと気持ちわるい。いつまでも引きずりやがって。バカだろお前。吐き気がするっての。ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい。
こんな自分が嫌いだ。
そしてこんな僕を、先輩が好きになるわけがない。
バイト辞めようかな、と思った。
唐突になんとも気の抜けるファンシーな音が鳴った。客の来店を告げるベルだ。どうやら先輩にやっと仕事ができたらしい。僕はといえば、客が来てもしばらくは待機だ。即キッチンに行っても、オーダーが入るまでは仕事がない。
テーブルに肘をついた姿勢でぼんやりしていると、先輩の声が聞こえた。
僕は立ち上がる。
呼ばれたわけではない。先輩が僕に助けを求めるわけがない。でもその先輩の声は、一般的に悲鳴と呼ばれるもののはずで、そうなれば僕が慌てないわけがない。
店の入り口付近に、先輩がいた。その向こうに髪の長いひょろひょろとした男。メガネをかけていて、なんとなく不気味な雰囲気の優男だ。男が先輩の腕をつかんでいて、先輩がそれに抵抗している。
僕はとっさに、なにしてんだよ、と声をあげて近寄る。先輩が僕を振り返って、なんとも言えない顔になる。僕はその時点でなんとなく状況を把握している。控え室からフロアに出るまでにかすかに聞こえた二人のやり取りや、先輩の困ったような見られたくないものを見られてしまったような表情が、僕の中でひとつの答えを出す。でも僕はそれらに気付かないふりをして、男の手をぎゅっと捻りあげる。男はなんともひ弱で、泣きそうな顔をして痛い痛いとうめいた。
「え、遠藤くん! やめて!」
僕は手を離した。先輩の声が大きかったからだ。
心臓がもう嫌になるくらい存在を主張していた。もう嫌だった。消えたかった。見たくない、見たくなかった現実がそこにある。髪の長いひょろひょろとしたどこか気持ちの悪い男の形をして。
「……誰ですか?」
なのに僕は、そんな質問をしてしまうのだ。自分にとってクリティカルな一撃になると知っていて、そんなことを聞いてしまうのだ。
「……坂田さん、です。……その、付き合ってる人、です」
ほらね?
死ね! 死んでしまえオレ!
でもそう簡単に死ねないから人は生きているのだ。
「そうですか」
感情を遮断した僕の声に、先輩が僕を見た。
坂田という先輩の彼氏は、僕の突然の登場に戸惑ったままのようだ。
「で、なにしてんですか?」
「え? ええと、いや、べつに……」
「いちゃつくんなら、仕事終わってからどこか別のところでお願いします」
情けない僕は、ついそんなダサいことを言ってしまう。
「い、いちゃついてなんかないよ!」
先輩が慌てて弁解する。と思ったら、弁解はそこで終わりみたいだった。
三人とも、なぜだか無言で立ち尽くす。わけがわからない。
「……じゃあ」
いいかげんバカらしくなったので、僕はそう言って先輩に背を向けた。
去らせてくれれば良かったのに。そうすれば、もう醜態を晒さなくてすんだのに。なのに先輩は、僕を呼び止めた。
「遠藤くん、待って!」
僕は再び先輩のほうを向く。
「……なんですか?」
「えと……、だって、遠藤くん、なんか誤解してるから」
「誤解?」
誤解だって?
「誤解なんてしてないでしょう」
「してるよ」
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「……だって、遠藤くん、……怒ってるから」
キレそうになった。
でも僕は我慢した。
「怒ってません」
「怒ってるよ」
「怒ってません」
「わかるよ。怒ってるもん」
「……仮に僕が怒ってたって、先輩には関係ないでしょう?」
先輩が上目遣いで僕を見た。怒ったみたいに僕を見た。先輩があまりにも可愛くて、ぎりぎりと心臓を締め付けられるようで、胸が痛くて、僕は目をそらした。
「……遠藤くん、あの」
「知ってると思うけど」
先輩の言葉をさえぎって、僕は自分で自分を握りつぶそうとした。泥だんごみたいにぎゅっぎゅっと丸めて固めて小さくして、なにがあっても揺れない心を作ろうとした。恋愛とかそういう人生においてちょっとのパーセンテージしか占めないものに右往左往しないように、小さく重く、沈んで沈んで二度と浮かんでこないものにしようとした。そうして必死に握りつぶすと、中に入ってたつまらなくも可愛らしい、尊い感情がぽこぽこと浮いてきて、僕の喉をつたって表に出たのだった。たぶんこれが、最後の言葉だ。
「……僕は先輩が好きなんです。まだ好きなんです。きっと、ずっと好きなんです。だからもう、見ていたくないんです。先輩には、僕に知らないところで幸せになってほしいんです」
先輩の顔を見ることができない。どんな表情をしているかわからない。だから僕は、場の空気ってやつを読めてない。もしかしたらものすごい寒いことを言っているかもしれない。でもまあいい。どうせ最後だ。もう会うこともない。
「……遠藤くん」
先輩がなんとなく潤んだ声で言った。
「……ありがとう」
ありがとう?
意味がわからない。いや、わかるか。わかるけどわからない。そんなこと言われても、ちっともうれしくない。
僕は先輩を見た。ついでに髪長ひょろ男を見た。こうして見ると、お似合いのカップルかもしれない。よくわからないけど。
なんだかひどく腹が立った。いまさらかもしれないけど、カーッと頭が熱くなった。
「……こんなやつより、僕のほうがマシですよ」
たぶんそれは負け惜しみってやつだ。めちゃくちゃかっこ悪いけど、僕はきっとそういうやつなのだ。情けない。情けなさすぎて涙がでてくる。
「僕のほうが先輩を幸せにできますよ、きっと。や、きっとじゃない。絶対。絶対ですよ先輩。だから……」
だからなんだというんだろう。だから付き合ってとか言うつもりか? 言えるわけがないじゃないか。バカだろオレ。
やっぱり三人は無言で、そのまましばらく時間が経った。もしいまお客さんが来たら、なにも言わずにドアのところで回れ右することだろう。営業妨害ってやつだ。まさか店長も、飼い犬に手を噛まれることになるとは思ってなかったはずだ。
僕主観で五十七年と三ヶ月くらいの時が経って、やっと先輩が口を開いた。
「……ごめんなさい」
拒絶の言葉。
びっくりすることに、僕はショックだった。この期に及んで、目の前が真っ暗になったのだった。
「今はまだ、遠藤くんの……、え!? ちょっと待って遠藤くん!」
僕は走った。走って控え室の前を通り過ぎ、裏の倉庫まで逃げた。ほんとは速攻で家に帰りたかったのだけど、まだ仕事があった。僕は中途半端だった。だけども半端じゃなくぼろぼろ泣いた。もしかしたらおんおん泣いていたかもしれない。先輩が追っかけてきてくれないかなという思いが片隅になかったとはいわないが、期待してなかったし、実際来なかった。それでよかった。
終わった。
僕の、二十歳を過ぎていまだ中学生みたいな僕の、淡い初恋はやっとのことで終わりを告げたのだった。
さて、である。
このまま終わってれば、ある種切ない恋物語ってことでケリがついていたんだと思う。
ただ相手は先輩だった。
先輩はどこか変わった人だ。計り知れないところがあるのだ。
僕はバイトを辞めようと思っていた。もう先輩に合わす顔なんてなかったし、そもそも会いたくないと思っていたのだ。潮時だった。いいかげん過去にばかりとらわれてはいられないのだ。
しかし辞めることはできなかった。
先輩が先に辞めてしまったのだ。
なんというかタイミングを外されてしまって、僕はずるずると仕事に入り続けた。いまさら新しいバイトを始めるのは面倒だし、仕事だけを考えるならここがベストだったわけだ。
先輩はなぜバイトを辞めてしまったのだろう。
考えるまでもない。僕のせいだ。
悪いことをしたなと思ったけど、先輩は僕をフったのだ。それくらいのペナルティを受けたっていいだろう。そう思うことにした。思えるわけがなかったのだけど、むりやり思うことにした。
そうしていつしか年が明け、僕は正月だというのにバイトに入り続けた。みんな正月くらいバイトを休みたいと思うので、その分が僕に回ってくるのだ。
そんな一月一日の朝。仕事を終えて控え室に戻ると、携帯に一通のメールが届いていた。
先輩からのメールだった。
7
そうして先輩は、あっさりバイトに復帰した。一月十五日。旧成人式の日。
出戻り娘ですねぇ、と武内が言うと、そうそう……ってなんでやね~ん、と先輩がノリつっこみをした。下手だった。
先輩は明るかった。僕を前にして、とても明るかった。
おいおいって感じで、もうため息しかでない。
そんな僕に、やっぱり先輩は笑顔で言う。
「ただいま」
もう溶けてしまいそうに可愛い顔なので、僕はもうこう返す以外なかったわけだ。
「……おかえり」
「あのね、あのときはいろいろ複雑な時期だったの」
人間ってのは現金なものだと思う。
あれほど先輩に会いたくないとか言ってたくせに、いざフロアに先輩の姿があると、正直めちゃくちゃヤル気が出た。いつもなら手抜きをするような細かい作業を屹然とこなし、やたらと時間のかかる閉店作業なんかも通常の半分くらいで終わらせることができた。
逆に言えば、先輩がこの店にいなかった少しの間、僕はもうどん底だったのだろう。死にかけのライオンみたいな。燃え尽き症候群みたいな。プチEDみたいな。露骨ですか?
そういえば、僕は髪を染めるのをやめていた。そんなところに気を回す余裕がなかったのだ。いまや根元が真っ黒で、アマゾンの奥地とかに咲いてそうな気持ち悪い花みたいだ。
「……複雑って?」
僕が問うと、先輩は眉根を寄せて難しい顔をした。可愛い。てか、あなたバイト辞める前よりきれいになってませんか?
「うーん……、なんていうか、そのぉ」
先輩は髪をかきあげながら言いよどむ。
「はっきり言いましょうよ。あのときみたいに」
「あのとき?」
「……ごめんなさい、て言ったときみたいに」
先輩が顔をしかめた。
「なんでそういういじわるなこと言うかな?」
先輩は言うが、僕はむしろ問い返したいくらいだった。
なんだか先輩は、全部終わってすっきりしたみたいな感じだ。
それは間違ってはいない。正しい。この上なく正しい。
けれど正しければいいってもんでもない。確かに終わった。好きとかごめんなさいとかはもう終わって、いわば僕らはただの先輩と後輩に逆戻りしたわけだ。でもそう簡単に吹っ切れるわけがない。僕の中にはわだかまりってやつが厳然と腰を落ち着けたままなのだ。
なんせ僕は、五年もの間引きずり続けた男だ。引きずることにかけては自信がある。県大会で三位くらいの自信がある。はっきりとした答えが出て、前とは段階が違うのだけど、もうちょっとくらい時間がほしいところなのだ。
なのに先輩は、すべては終わったことなのよ、とばかりに普通に僕の前にいる。その強靭さをわけてほしい。
「いいよ。じゃあはっきり言うよ」
先輩は、ふんってすねたように言った。
「あの人とは別れました」
「…………」
は?
「それで」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ん?」
「……別れたんですか?」
なんて衝撃的なことをさらっと言う人なんだろう。僕にはこの人の精神構造がちっとも理解できない。
「別れたよ」
「あの、坂田さんって人と?」
「だからそう言ってるじゃない」
僕はまた、はあ、とため息みたいな返事をした。
そうなんだ。別れたんだ。なるほど。それで……。
それで?
別れたから、なんなんだ?
「前から別れよう別れようとは思ってたんだ。でも、なかなか踏ん切りがつかなくてさ」
確かに先輩は、頼まれたら断れないタイプの人だった。別れたくても、相手が別れたくないと言えば、なかなか別れることができないんだろう。簡単に想像がつく。
さらに先輩は続ける。
「あの人、なんていうか、すごい頼りない人なの。わたしがいなかったら、誰がこの人の面倒見るんだろうって感じで。だから別れるとかなかなか言えなかったんだけど、もうそんなことじゃいけないと思ったの」
「…………」
なんか変な気分だった。先輩の口からそういう話を聞くのは、あまり気分の良いものではない。
「……どうしてバイト辞めたんですか?」
話を変える意味でも、僕はそんなことを聞いてみた。まあ戻ってきてから聞くようなことじゃないのかもしれないが、戻ってこなかったらそもそも聞けなかったことだ。
先輩は上目遣いで、僕の様子をうかがうようにして答えた。
「だって、わたしが辞めなかったら遠藤くんが辞めちゃいそうだったんだもん」
「それは……」
僕はなにかを言おうとするが、上手く言葉が出てこなかった。
確かに僕はバイトを辞めようと思っていた。でも問題は、それを防ぐために先に辞めたという先輩の行動だ。鋭いというか勘がいいというか、先輩に似合わない狡猾な感じさえする。
まるで手のひらで踊らされているようで、さすがの僕でもちょっとばかしイラついた。
「……べつに僕は辞めたってよかったんですけど」
そして出てくる言葉がこれだ。自分で自分にため息が出る。
けれど先輩は、慌てたように言った。
「それはダメだよ。わたしのせいでそんなことになったら、遠藤くんに悪いし。それに……」
「それに?」
「……遠藤くんがいなくなったら寂しいじゃない。わたしは、最初からまた戻ってくるつもりだったんだし」
後半はよく聞こえなかった。声が小さかったとかじゃなくて、先輩の前半部分の言葉が頭の中で木霊していたからだ。なんか踊らされまくりだ。
ああくそ。変な期待すんなよオレ。
つーか期待させるようなこと言うなよ先輩。
「なにぼーっとしてるの?」
「え? あ、いや、ぼーっとなんてしてないですよ」
「うそ。どっか遠く見てたよ」
「先輩がいるのに、遠くなんて見るわけがないじゃないですか」
先輩が頬を赤くした。こほん、と気を取り直したように、続きを話し始める。いや、冗談のつもりだったんだけど。
「そういうとこなの。遠藤くんのそういうところだったの」
先輩がよくわからないことを言う。
「遠藤くんが、その、言ってくれたじゃない。その、ええと、わ、わたしのこと、す、好きって」
ますます顔を赤らめる先輩。もちろん僕だってりんごみたいになっている。
「……だから?」
「うん。だから……別れることを決めたの」
テーブルを挟んで先輩と僕。もちろんこの控え室には他に誰もいない。フロアの客席にだって、ひとっこひとりいない。つまり、いまこのファミレスの敷地の中には、僕と先輩の二人しかいないわけだ。
先走った脳みそが、あれこれ人に言えないとんでもない想像をめぐらす中、僕はあくまで冷静を装って、先輩に聞いてみた。
「それって……どういう意味ですか?」
「ん? どういう意味って、そういう意味だよ?」
「それは、その、僕がいま思ってることと同じなんでしょうか?」
「……同じだと思ってたけど、違うかもしれない」
「違いますか」
「たぶん、違う」
「めくるめくような愛の世界が始まるわけじゃないんですか」
「な!? そ、な、なに考えてるの!?」
違ったみたいだった。そりゃそうだ。
僕はなんだか楽しくなってきた。ふふっと笑いがこぼれてしまう。
こんなふうに先輩と話せるのはいつ以来だろう。ずいぶんと久しぶりな気がした。
もうっ、と先輩が横を向いた。ぷいって感じだ。
「それで、ほんとはどういう意味なんですか? なんかよくわかんないんですけど」
「…………」
先輩は、様子をうかがうように僕を見た。それから、しょうがないなぁという感じに話しだした。
「わたしも遠藤くんみたいに、思ったことをはっきりいわなきゃなって思ったの。だってそうでしょう? もう好きでもないのに、ずるずる付き合うのはお互い良くないことだし」
「……好きじゃなかったんですか?」
「最初はちゃんと好きだったよ。でもいまは、もう……」
ふと会話が途切れる。
タイミング良くファンシーなベルが鳴って、先輩がフロアに出た。お客さんだ。
先輩がいなくなって、僕は携帯を取り出した。
僕も先輩も携帯電話を持っていた。でも二人の間で使われることはなかった。毎日のようにバイトで会っていたんだし、あえて電話をかけるほどのことはなかった。メールはもっとで、お互いメール自体が苦手だったのだ。
だけれども、僕の携帯には先輩からのメールが保存されている。一月一日に受信した、先輩からの初めてのメール。
ドリンクバーだけだったよ、と言いながら、先輩が戻ってきた。どうやらドリンクバーだけを頼んで、スポーツ新聞を読んで帰っていく常連のお客さんらしい。まあいろいろな人がいるもんだ。
「どうしたの? 誰かから電話?」
僕の携帯を見て、先輩が言った。
「どっちかっていうと、メールです」
僕は先輩のメールを表示させ、先輩に見せた。
それはなんというか、理解不能なメールだった。
まず画像がある。青い空、白い雲。しかし不思議なのは、その雲の下に町並みがみえることだ。普通、というか常識として、町があってその上に空がある。雲は空に浮かんでいるわけで、この順列はどうやったって逆転しない。つまりこのどこか変な写真は、雲の上から街を見下ろして撮ったことになる。どういう状況なんだって話だ。
ただ僕には、その景色に見覚えがあった。てか、一発でわかった。
そして本文にはただ一言。
『すがすがしい!』
もはや不条理だ。先輩の人格のすべてをあらわしているメールだ。
だがそれも、いまの話を聞いて、ちょっとだけ意味がわかった気がした。
「これ、富士山でしょ?」
「さすが遠藤くん」
先輩は嬉しそうに笑った。
「富士山は良いって、勧めてくれたでしょ? だから行こうと思って。それでせっかくだから、御来光見にいってきたんだ。もうねぇ……もうすっごい気持ちよかった! 最高! だけど大変だったよ。山登りなんてしたことないから、もう足がぷるぷる震えちゃった」
そう言って、先輩は生まれたての仔馬、あるいは狂牛病の牛のものまねをした。
「この本文は?」
「身辺の整理がついて、清清しいってこと」
なんとなく不吉な言い方をする先輩だった。
epilogue
ある日の、やっぱりバイトの休憩中。
先輩は、どでーん、という勢いで染髪料の箱を突き出した。
「今日は遠藤くんの髪を染めよう」
「は? 仕事中ですよ?」
「だいじょうぶだいじょうぶ。お客さんなんて来ないよ」
さりげなく店に対してひどいことを言いながら、先輩はいそいそと準備を始めた。
「だってさぁ、その頭はちょっと悲しいよ。むりやり金髪にされたカラスみたいだよ」
「……死にかけのライオンよりマシじゃないですか?」
「なにそれ?」
「先輩が言ったんでしょうが」
「そんなこと言ったっけ?」
忘れてんのかよ。
人の首にビニールのカバーを巻きつけ、先輩は二つの染料を混ぜ合わせている。僕はいつも知り合いの美容師にやってもらっていたので、こうして気軽に染められることが、知ってはいたもののちょっぴり新鮮だった。
しかも先輩に染めてもらうのだ。こんなにうれしいことはない……! て感じ。
三月だった。先輩が戻ってきて、またしばらくの月日が流れた。
ちゃっかり武内は大学に合格していて、無事バイトも卒業することになる、と僕は思っていたのだが、やつには辞める気なんてさらさらないらしい。
「こんなに慣れて、手も抜き放題だってのに、いまさら新しいバイトを始める気なんておきませんよ。それに……あんたと月島さんがどうなるのかも、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、気になりますしね」
僕と先輩がどうなるのか。
実はあれから、僕はもう一度だけ先輩に告白した。三度目ともなると、もう慣れたもんだった。ていうか、先輩の前で先輩が好きとか平気で言えるようになってしまった自分が怖い。
僕の、あいもかわらず剛速球ど真ん中の告白に、先輩は真剣な顔で答えた。
「あのときは、その、飲み会のときと、去年の年末のときのことね。あのときは、まだ前の人と別れてなかったからちゃんと答えることができなかったけど、……いまはちゃんと遠藤くんの気持ちに答えるよ」
僕は自分の顔がニヤけるのがわかった。
「ってことは?」
「……ごめんなさい」
ゴメンナサイなのかよ!
思わずつっこむところだった。
まあいい。しょうがない。心はあいかわらず痛いけど、もう慣れた。
……嘘だ。ちっとも慣れない。
ただ、先輩の言葉にはまだ続きがあった。
「なんていうか、遠藤くんを男の人として見たことがなかったから、そんなすぐ好きとか思えなくて。……だから、ごめんなさいはごめんなさいなんだけど、そんな絶望的な意味じゃなくて、なんていうか、できるだけ前向きに検討しますって感じかな」
「政治家かよ」
今度はつっこんだ。なんて曖昧で遠まわしな答えだろう。どう受け取ったらいいものか、さっぱりわかりやしない。
僕のつっこみがショックだったのか、先輩は落ち込んだような顔でうつむいた。
「い、いや、そんな落ち込まなくても……。ほら、僕なら大丈夫だから。ね? 泣かないでくださいよ、先輩」
もちろんそれは僕の早合点で、先輩はちっとも泣きそうになってなかった。先輩は、ぱぁっと明るい顔をして僕を見た。とってもいいことを思いついたのおじいちゃん! て感じの顔だった。
「遠藤くん」
「は、はい」
きわめてまじめな顔の先輩に、僕は怯んだ。
そして先輩は言った。
「お友達からはじめましょう」
「…………」
そんなこんなで。
僕と先輩の関係は『先輩後輩』から『お友達』へと昇格したのだった。
「痛い、なんか痛いっすよ先輩」
「がまんして」
「痛っ、なんかひりひりしますよ先輩」
「がまんしてったら」
僕の頭には染髪料がべたべたと塗りつけられている。もちろん勤務中で、バレたらきっとめちゃくちゃ怒られる。社員の目が届かない深夜早朝の勤務は、ひとえに信用で成り立っているのだ。
これでバレてクビになったらかなり面白いな、と思うと笑いがこみ上げてきた。
「ちょっと動かないでよ、遠藤くん」
先輩はものすごい真剣だった。目が血走りそうな勢いだ。
「……先輩は金髪嫌いなんじゃないんですか? ずっとそう思ってたんですけど」
「なんで?」
だって死にかけのライオンとか言うから。それに前カレがやけに長い黒髪だったから。
もちろんそんなことは言わないけど。
「べつに嫌いじゃないよ。ていうか、むしろ好きかも」
僕はつい、思いっきり振り向いてしまった。先輩に睨まれて、すごすごと向き直った。本気と書いてマジの目だった。
それから先輩は、んー好きってことでもないか、と前言を撤回した。
「最初に見たときは変な頭だなぁって思ったんだけど、もう見慣れちゃったのかも。似合ってるよ、金色の髪」
先輩の言葉には主語が抜けていた。それが妙にうれしかった。
ふいにピンポーンという音が聞こえた。オーダーを頼むお客さんの呼び出し音だ。
「あ、お客さん。……あっ、手! 手、どうしよう!?」
「ちょっと待ってくださいよ! 僕はどうすりゃいいんですか!?」
「あー、うーん、……そのままで」
「かんべんしてくださいよ……」
「わたし、手ぇ洗ってくる」
先輩が行ってしまって、僕は一人取り残される。
髪はべたべたで古き良きサラリーマンスタイル。まあ七三ってことだ。首の周りにはヒラヒラのビニールのカバーがあるし、頭皮はひりひりするし、これじゃかぶらなきゃいけないキッチン帽もかぶれない。
それでも仕事をしないわけにはいかない。僕はとぼとぼとキッチンに向かう。
スイングドアを抜けてキッチンに入り、フロアが見える位置まで行く。ちょうどオーダーを取り終わった先輩が、こっちに帰ってくるところだった。
「……ぷっ」
僕を見て笑いやがった。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「ごめんごめん。……面白いから、記念に写真撮っとこうか?」
「お願いだから、かんべんしてください」
こんな感じで日々は続いていくのだろうか。
だとしたら……微妙だ。
余談になるが、やっぱり美容院というのは偉大だった。
僕の頭のてっぺんは、とても金髪とは呼べない、なんていうか下品な茶色ってな按配に落ち着いた。
「なんかこんなお菓子あったなぁ」
先輩が感慨深げにそんなことを言う。感慨深げに言うことか?
「でもこれはこれでラッキーだよ、遠藤くん」
「なにがですか?」
「目立つよきっと。このままほっとけば、遠藤くんの頭は三色になるよ。黒、茶、金。凄い! なんだかわかんないけど豪華だよ」
その日の夜、僕はバリカンで坊主頭にした。なんか涙が出た。
先輩は僕の頭をしゃりしゃりと撫でながら、楽しそうに言った。
「坊主も似合うんだね。遠藤くんってすごいよね」
「…………」
先輩は計り知れない。
でもまあ、きっと髪型なんかどうでもいいことなのだ。
先輩はきっと、僕自身を気に入ってくれてるのだ。
金髪だろうが坊主だろうが、僕の中身が変わるわけではない。
……きれいに締めくくれたってことでひとつ。
モラトリアムは続く。
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