センパイと一緒。 その1
prologue
先輩の笑顔が好きだなあと思う。
いままさに咲かんとする花のような、儚げだけどどこか秘めた強さを感じさせるような、そんな笑顔。
たとえば授業が終わり、先輩の大好きな部活動が始まるとき。そんなときの先輩のうれしそうな顔ったらなかった。
お昼休みの部室。先輩は女の子のくせにずいぶんと大きな弁当箱を使っていて、いつもお腹いっぱいにお昼ごはんを食べては満足げな顔をしていた。
僕のつまらない笑い話なんかにも、先輩は盛大に笑ってくれたりした。
ずうっと見てたいなと思ったものだった。
先輩の笑顔をいつまでも見ていられたらなと思ったものだった。
でも世の中というものはなかなかに難しく、そうそう思い通りにはいってくれない。
冬が終わって春が来て、先輩はあっさりと卒業してしまった。
卒業後も一緒の時間を過ごそうね、みたいな約束はとうとう口に出来ないままだった。
多分もう会うこともない。
そう思ったら、意外にも簡単に諦めがついた。
もう会うこともない。だから仕方ない。
悲しいけれど仕方がないのだ。
でも、本当はもう会いたくなかったのだと、次に会ったときに気がついた。
1
ピロピロ、ジジジ、という音がして、小さな箱型の機械から紙がひりだされる。
ハンバーグ、1。和風ハンバーグ、1。ポテト、1。
僕はその紙を三十秒じっと見つめて、間違いのないことを確認した。頭が半分眠っている状態なので、おざなりにやるとあっけなくミスをしてしまう。何事も慎重に慎重を期さなければならないわけだ。
足元の引き出しを開けてハンバーグを二枚取り出し、焼けた鉄板の上に置く。指でしっかりと真ん中の辺りを押すことも忘れない。
くるっと回転して、壁際にあるこれまた引き出し式の冷凍庫から、小さなボウルに凍ったポテトを掬い上げる。ボウル一杯がちょうど一人前なのだ。ポテトをフライヤーに沈める。一四〇℃の油に水分が蒸発する音が耳に心地いい。
再び振り返り、ハンバーグをひっくり返す。表一分、裏一分、と焼く時間が決められている。
わずかに生まれた空き時間を利用して、サロンと呼ばれるエプロンで手を拭う。ふいにフロアのほうから名前を呼ばれて、僕はそちらに目をやった。
「遠藤くん。今のハンバーグのお客さんね、ソースを別のお皿で出してほしいって。お願いね」
僕は返事もせずに、声の主をじーっと見つめた。
「え? な、なに? なんか変なこと言ったかな?」
戸惑ったような顔をしている。僕は予想通りのその反応が気持ちよくて、さらに見る。
「……ハンバーグ、焦げるよ」
先輩は少し呆れたような声音で言った。
先輩と再会したのは先月のことだった。
僕がバイトをしているファミレスに、いきなり先輩が面接を受けにやってきたのだ。
その日たまたまウェイターに駆り出されていた僕は、ふいに声をかけられて飛び上がって驚いた。先輩が中学を卒業して以来、約五年ぶりの再会。まさかこんな形で再会することになろうとは、毛の先ほども予想していなかったので、僕の動揺ぶりたるや、それはもう恐ろしいほどだった。客前に出せねーよと店長に言われ、無理矢理休憩させられるほどだった。
そのときの先輩の一言が忘れられない。久しぶりに会ったというのにそんなこと言わなくてもいいじゃないか、と思ったからだ。
「変な頭になっちゃったねぇ。死にかけのライオンみたい」
むりやり染めて似合っているつもりの金髪を、そう評されたのだった。
「ひさしぶりだねぇ」
本当に久しぶりだったので、僕たちのぎこちなさったらなかった。
「えと月島さんは……」
「え、やめてよ。月島さんなんて、そんな他人行儀な」
「じゃあ……先輩」
「はい。……なんか懐かしくて照れるね」
「……先輩はいま、なにしてる人なんですか?」
「いま? ええと、家事手伝いかな」
「それって、無職ってことでしょ」
「……それはそうだけど。じゃあ、遠藤くんは?」
「オレはあれですよ。フリーターですよ」
「……それって無職ってことでしょ?」
先輩はちっとも変わっていなかった。
いや、かなり変わっていた。なんていうか大人っぽくなっていた。
五年も経っているのだから当たり前かもしれないが、なんだか変だった。こんなに女っぽい先輩はちょっと想像できるものではなかった。
たしかに先輩は、中学のころからずいぶんときれいな顔をしていた。でもそれは、あどけない少女みたいな美しさってやつで、いまみたいに人目を引く感じのそれではなかったのだ。
それがどうだろう。いまとなっては見ているだけで、ポーッと頬が赤くなってしまいそうだ。もう曲線がすごいことになっていた。どこがどうとは言わないが、まあ胸とかお尻とか、なんかえらいことになっていた。〝ら〟を〝ろ〟に言いかえたいくらいのことになっていた。
これはちょっと反則ってもんじゃないだろうか。
そもそも現実感がないのだ。もう会うこともなかったはずの先輩が、いきなり目の前にあらわれるなんて。その上、僕に向かってにこやかに話しかけているなんて。
先輩の笑顔だけがぼんやりと蜃気楼のように浮かんでいて、それ以外のことがはっきりとしない。まるで夢を見ているようなのだ。
先輩は、本質的なところではちっとも変わっていなかった。
考え事をするとき、口に人差し指をくっつける癖。
最初は静かにしろと言われているのかと勘違いして、じっと押し黙っていたものだった。懐かしい。
困ったとき、そのきれいな髪をぎこちなくかきあげる癖。
僕はわざと先輩を困らせては髪をかきあげさせ、密かにほくそえんだものだった。それもまた懐かしい。
二度、三度と会ううちにだんだんぎこちなさもとれ、僕は時折あのころに戻ったんじゃないかと錯覚してしまうことさえあった。
いまから思えば、ほんと天国のようだったあのころ。
先輩の本質。
それは大げさに言うならば、慈愛の精神だ。あらゆることをおおらかに包み込んでしまうような優しさだ。
先輩は確かに目の前にいる。
目の前で存在している。
それだけのことがわかるのに、ずいぶんと時間がかかった。
「遠藤くんはタバコ吸わないの?」
バイトの休憩中、控え室にて先輩と二人、僕が揚げたポテトをつまんでいる。ちなみに料金は発生していない。社員さんには内緒。黙っていればわからない。
夜中の二時から朝の九時までというのが、僕の基本的な勤務時間だった。先輩の勤務時間は朝六時から九時。先輩とは三時間、一緒に働くことになる。
先輩のシフトはモーニングと呼ばれている。この時間に働いているのは主婦が多い。家計を助けるパートのおばちゃんたちだ。
なのに先輩はあえてその時間を選び、わざわざ朝の五時起きで週五日も働いていた。夕方のディナーにでも入ればいいものを、なんでまたこんな朝早くから働いているのだろうか。
「朝起きるのって全然苦にならないんだよ。夜はだって、テレビみたいからさ」
単純な理由だった。テレビを見たいからってあんた子供か。
まあ僕だって人のことは言えない。僕だってテレビは好きだ。それがないと暇で暇で生きていけないんじゃないかってくらい大好きだ。テレビが唯一の話し相手。自分でもどうかとたまに思う。
「タバコなんて吸いませんよ。体に悪い。先輩は吸うんですか?」
「ううん。吸わないよ」
先輩はそう言って灰皿を手に取り、たっぷりとたまった吸殻をゴミ箱に捨てた。こびりついた細かな灰を、ティッシュをつかって丁寧に拭き取る。
「こういうの気になっちゃってさ。遠藤くんが吸うんならそのままにしててもいいんだけど、吸わないんならきれいにしとこうかなって」
控え室は禁煙ではないので、ちゃんと灰皿が置かれていた。なぜだか知らないが、この店にはヘビースモーカーが多い。仕事中でも、わざわざ控え室にタバコを吸いに戻るやつさえいる。控え室の中はいつも白い煙が充満しているのだ。
「なんか手馴れてますね」
先輩の手付きを見ているとなんだかそんな感じがした。日頃の習慣を繰り返しているような手つきだった。
「ええ? そんなことないよ」
先輩は顔の前ではらはらと手を振って軽く否定した。
「ここの店って、タバコ吸う人多いよね」
「そうですね」
先輩が変えた話題に僕は乗った。
「ほんと迷惑ですよね。すぱすぱすぱすぱ吸いやがってね。本人はいいとしても、周りが迷惑なんですよ。副流煙って体に悪いって言うじゃないですか。こんな空気の悪いところにいたら肺がんになっちゃいますよ。お前ら、責任取れんのかって話ですよ」
「でも男の人がタバコを吸う仕草ってかっこいいよね」
「そうですね。かっこいいですね」
僕は同意した。明日からタバコ吸うことにしようかなと思った。
「……もうバイトは慣れましたか?」
「うん。もうすっかりだよ」
先輩は右手でなんだかよくわからないサインを出した。オッケーという意味だろうか。多分そうだろう。
「みんな親切だしね。わからないことがあってもちゃんと教えてくれるし」
「でも、もうわからないことなんてないでしょう。キッチンから見てても落ち着いたもんですよ」
「いやぁ、まだまだだよ」
「もしわからないことがあったら言ってください。教えてあげますから」
「ええ? でも遠藤くんはキッチンでしょ?」
「フロアだってやりますよ。人手が足りないときとか」
「その頭で?」
「いや、頭は関係ないでしょ」
僕は律儀につっこむ。
「てか、初めに会ったときフロアだったじゃないですか」
「ああ、そっか」
先輩はうふふと笑った。
それにしても僕の頭はそんなに変なのだろうか。ちょっと考えなければならない。これは由々しき問題だ。
「あの時はびっくりしたなぁ。だっていきなり遠藤くんが来るんだもん。いらっしゃいませ、とかよそ行きの声で言っちゃってさ」
「そりゃ、こっちのせりふですよ。お客さんだと思ったら、思いっきり先輩なんだもん」
「それにしてもよくわたしだってわかったね」
「え?」
「だって、ずいぶんひさしぶりだったのに」
言われてみれば確かにそうだった。五年ぶりだったというのに僕は一目で先輩を認識した。
見た目はだいぶん変化していた。当たり前だ。僕が最後に見たのは先輩が十五のときで、十五から二十にかけて、男だろうが女だろうが見た目が変化しないわけがない。
考えてみれば不思議な話だ。僕はどうやって先輩を見分けたのだろう。
しかしそれは、先輩にも同じ事が言えるのだった。先輩が見た最後の僕は、思春期真っ只中の十四歳だったはずだ。五年という時間は僕にだって等しく働きかけている。背だってずいぶん伸びたし、頭だって金色だ。……たとえ似合ってないとしても。
「そういえばそうだね。うーんと、ええと、きっとほら、あれだよ。ほら、ええと……」
先輩は髪をかきあげた。どうやら答えに苦慮しているらしい。
「まあとにかく遠藤くんがいてくれてよかったよ。知ってる人がいるのといないのじゃ、全然違うしね」
きっぱりとごまかしやがった。ごまかしつつも先輩はポテトを口に運ぶ。慌てたからか口の端にケチャップがついている。まあいいけどね。
「なんにせよ、せっかくまた一緒に働けるようになったんだからさ、仲良くしようね」
また、なんて言われても、いまだかつて一緒に働いた経験はないのだけど。
とにかく先輩に言われて僕は素直にうなずく。先輩にそんなことを言われたら、もう僕にはうなずく以外に選択肢がないのだった。
先輩はもう一度、にっこりと笑った。
2
僕と先輩の関係は、いつの間にか店中に知れ渡っていた。といってもまあ、単なる中学の先輩と後輩でしかないわけだが。
中でも、ディナーでは相当うわさになっているらしい。
ディナーと言うのは夕方から夜までのシフトのことで、その時間帯にバイトしている連中の八割以上が高校生だ。しかもなぜだか男ばかりで、女の子のバイトが新しく入ってくると、決まってちょっとした話題になる。その女の子が可愛かったりしたらもう大騒ぎだ。
当然のように先輩についても話題になり、彼氏はいるのか? 年はいくつか? どこに住んでるのか? 好みのタイプは? スリーサイズは? 風呂に入ったときどこから洗うタイプ? などと、なぜか先輩ではなく、僕に聞いてくるのだった。
「ねぇ、あの人、名前なんていうんですか? 年上かなぁ。だとしたら年下はどうなんですかね。年下好きとか言ってませんでした? 背の高い男が好みだったりして。だとしたらぴったりなんだけどなぁ。ねぇ、聞いてますか? ちょっと遠藤さん。あの人と親しいんでしょ。それくらい教えてくれてもいいじゃないですか。ねぇ、遠藤さんって」
その中でも一番しつこいのは武内というやつだった。
武内は身長が190センチもあるのにスポーツの経験が一切ないという、なんだかちょっともったいないやつで、僕がディナーに入っていたころに一緒に遊んだり家庭教師の真似ごとをしてやったりした、高校三年の受験生だ。
バイトなんかしている場合じゃないだろうと思うのだが、本人は受験勉強のためにバイトを休む気などさらさらないらしい。
「なんであんたはそんなに秘密主義なんですか。どうしてそう隠したがるのか。あ、もしかして、もうすでに付き合ってるとかじゃないでしょうね?」
「バカなこと言うなよ」
同じファミレスで働いているからといって、毎日顔を合わすわけではない。僕と武内はシフトも違うので、一緒に働くのは週に一度くらいだ。
「わかりました。じゃあ、名前だけでも教えてくださいよ。名前くらいいいでしょう?」
「名前なんて知ってるだろ」
「月島、なにさんですか?」
「月島陽紗(かずさ)さんだよ」
「へえ、いい名前ですね。じゃあカズサさんは彼氏とかいるんですか?」
僕はうんざりだった。もう何度、おんなじようなことを聞かれたかわからない。そもそも武内と一緒にいる時間というのはすなわち勤務中なわけで、あまりべらべらとしゃべってばかりもいられないのだ。
「お前さ、名前だけっていったじゃないか。いいから仕事しろよ」
「まあ、そう言わずに。お願いしますよ」
「やだよもう。それより手を動かせっつーの」
「わかりましたよ。しょうがないなぁ。じゃあ趣味はなんですか。それだけ。それだけでいいですから」
武内は細長い体を折り曲げて、顔の前で手をあわせながら言った。こいつの大げさな身振り手振りはいまに始まったことじゃない。
「……そんなに知りたいならさ、本人に直接聞けよ」
「そんなの聞けるわけないじゃないですか」
ふと思う。なんでこいつはこんなにも先輩のことを知りたがるのだろう。
僕は思ったことをそのまま聞いてみた。
「……お前さぁ、先輩に気でもあんの?」
「なに言ってんですか。おれは美人にはみんな気があるんです。当たり前じゃないですか」
「…………」
気持ちはわからなくもないが、そんな胸張って言うことでもないだろう。
「こないだ言ってた、ほら、なんていったっけ。いただろ? お前と同じクラスの可愛い子」
「和田っちですか?」
「そう、それ。その子はどうしたんだよ」
「いつの話してるんですか。あんた時間止まってんじゃないですか?」
「……オレの記憶が正しけりゃ、確か先週の話だったと思うんだが」
「おれは過去を振り返らないんです」
ぜひ振り返ってほしい。そんであのときの自分の熱弁振りと、聞きたくもない話を延々聞かされてうんざりしている僕の顔を思い出してほしい。つーか謝れ。
そうして武内の質問攻勢に答えたり答えなかったりしているうちに、ようやく武内の勤務時間が終わりを告げた。僕は「続きはまた今度」と笑顔で去っていく武内の顔を殴りたい気持ちで一杯だった。
最後に、武内はこんなことを言った。
「月島さん、なんでモーニングなんでしょうね」
「あん?」
「だって変じゃないですか。モーニングなんて若者の働く時間帯じゃないですよ。お金欲しいなら午前中いっぱい働けばいいわけですし、友達増やしたいならディナーのほうがいいでしょ?」
「そんなの……なんか理由があるんだろ」
武内は釈然としない面持ちだった。
言われてみれば、確かにそんな気がしないでもない。
「…………」
武内が変なことを言うせいで、僕も気になってしまったのだった。
先輩はどうしてバイトを始めたんだろう。
「先輩はなんでまたこんなとこでバイトしようと思ったんですか?」
休憩時間の控え室。先輩はすっかりリラックスモードだった。べったりと机に張り付くように突っ伏して、普段から持ち歩いているらしい地図帳を開いている。すぐ脇には背の低いタンブラーがあって、中ではコーラがシュワシュワと泡を立て、そこから伸びたストローが、ちょっと無理やりな角度で先輩の口元まで弧を描いていた。
「こんなところってなにさ」
先輩は目玉だけをくりりと動かしてこちらを見た。動くのが面倒で仕方がない、といった格好だ。
「こんなとこはこんなとこですよ」
「なに言ってるの。自分だって働いているくせに」
「僕はほら、あれですよ。僕のことはいいんですよ。ほっといてくださいよ」
ナイトと呼ばれるシフトは、夜の十時から朝までという過酷な時間帯だ。その中でも午前二時から朝の九時までという、およそ人間の働くような時間じゃない時間を、僕は働いている。
一方、先輩は朝の六時から九時までのモーニングだ。重なっている三時間を楽しみに、僕は生きているようなもんだ。
先輩は体調が悪いのだろうか。なんだか元気がないように見える。
先輩が病気になるというのは、実はあまり想像つかない。先輩はむしろ健康優良児だった。中学のころは、一度も学校を休んだことがないというのを自慢にしていたはずだ。それが果たして自慢になるのかどうかはともかくとして。
どちらかというと先輩は、怪我をすることが多かった。なにもないところで転んで青あざを作ったり、満員電車で足を踏まれて捻挫したり、体育の授業でバスケットボールを受け損なって小指の骨にひびが入ったりしていた。ある意味、器用だ。
現にいまだって、見えるところだけで二ヶ所に絆創膏が貼られていた。右のひじと首筋。首筋なんてどうやって怪我をするんだろう。
もう少し気をつけて日々を過ごしてほしい。余計なお世話かもしれないが。
「ほんと、余計なお世話だよ。わたしだって子供じゃないんだからさ」
「大丈夫ですか?」
「だからぁ。やめてよ、もう」
本当に大丈夫なんだろうか。それはもう大人として。心配事は尽きない。
「そんなことよりさ、箱根ってどこだろう?」
地図帳を示しながら先輩が言った。どうも話をそらしたいみたいだ。僕は素直に流れに沿うことにした。あんまり先輩をいじめるのもかわいそうだし。
先輩はなにかに興味を持つと、それに没頭する性質があった。どうやらいまの先輩は、地図を見るのが好きらしい。普段から何冊かの地図をかばんに入れて持ち歩いていると言っていた。なぜ地図を見るのが好きなのかと聞いたら、わくわくするからだと答えた。
「だってなんかわくわくしない? 見たことも行ったこともないところなのに、ちゃんとそこには人がいて、わたしが知っている町ときっと同じように動いてるって考えたら、それは凄いことなんじゃないかなぁって思うの」
僕はなるほどと神妙にうなずいてみせたが、なんのことだかよくわからなかった。よくはわからなかったが、そうやって先輩の口にすることがいちいち心にしみるようで、僕はやっぱり中学のころを思い出すのだった。あの時は、いつもこんな感じだったのだ。
差し出された先輩の地図帳は、意外と詳細なものだった。わざわざ買ったのだろうか。僕は学校の授業以外で地図なんて眺めたことがないので、その気持ちがわからない。
地図をひっくり返して、ちらりと値段を確認した。二千五百円と書いてあった。絶句。本一冊に二千五百円。二千五百円あったらなにが買えるだろう。家が買えそうだ。
「そんなわけないじゃない」
まじめな顔で言われた。
「でもジャンプなら十冊買っておつりがきますよ」
「ジャンプ? それって跳ぶって意味のジャンプ?」
さて話を戻そう。
「箱根は静岡でしょう」
「ああ、そっか」
先輩は地図を手前に引き、ぱらぱらとめくった。
フロアで朝の六時まで働いていた、僕とさほど変わらない二十代前半にしてすでに3人の子持ちの高橋さんは、気を利かせてくれたのかすみやかに帰っていった。
高橋さんは三人の子供を育てるために、昼の仕事のほかにこのファミレスのバイトもしている。いったいいつ眠っているのだろうか。怠惰な僕にはとてもじゃないが真似できそうにない。
フロアには一人の客もいなかった。ノーゲストと呼ばれる状態だ。お客さんがいないと僕らには仕事がない。オーダーのない間は自由に休憩していいことになっている。深夜から早朝にかけてはおおむね暇なので、結果的には勤務時間の大部分を休憩することができ、それもまた深夜勤務のお得なところだ。
ただ座っているだけで時給は加算されていく。目の前には店長に内緒のポテトフライがおつまみとして置いてあり、さらにはただで飲み放題のコーラ、そして先輩。
先輩はポテトをつまみ、コクコクとコーラを飲み、炭酸がのどにしみたのか涙目になりながら、僕を見て言った。
「静岡ってどこだっけ?」
地図を見るのが趣味の割に、地理に詳しくない先輩だった。
「静岡はここです。小学生でも知ってますよ」
先輩は照れたように笑った。いや、照れるところじゃないのだが。
「しょうがないじゃない。知らないものは知らないんだからさ。それに行ったこともないしね」
そんなことを言いながら先輩は地図の上の静岡を指でなぞった。
先輩の指先が形作る静岡県は、どことなく金魚のような形をしていた。西側が頭で、伊豆半島が尻尾だ。海沿いは薄い茶色のような色に塗られていて標高が低いことを表してあり、あとは濃い緑で全部山だった。まあ日本はどこでもそうかもしれない。
静岡といえば、お茶とかサッカーとかいろいろ思い浮かぶものがあるが、やっぱりなんといっても富士山だろう。
「先輩、富士山はいいですよ。行ったことありますか?」
「ううん。ない」
「凄いすよ。なんとなくこれくらいかなっていう高さがあるじゃないですか、山って。その上を行きますからね。想像の斜め上ですよ」
僕は富士山に行ったときの話を、ちょっとした面白エピソードなんかを交えながら話してあげた。案の定、先輩は楽しそうに笑ってくれた。
あぁ、こんな感じだったなぁ、とまた思った。なんだか幸せな気分だった。
「いいなぁ。話聞いてたら行ってみたくなったよ」
「行ったほうがいいですよ、ほんと」
先輩は、そうだね、と鞄から赤のボールペンを取り出した。地図の「富士山」と書いてあるところにアンダーラインを引き、さらにくるくると二重に円で囲う。その外には花びらをつけくわえた。
「なんのマークですか、それ」
「いつか行ってみたいなマーク」
「なんだそりゃ」
よく見ると、先輩の地図にはいたるところに同じマークが書いてあった。ちょっとしたお花畑状態。
「箱根にも行ってみたいんですか?」
「ん? まあ、そうかな」
「なんでまた」
「なんでって聞かれてもなぁ。なんか名前がいいじゃない。箱根って」
「その理由、いま考えたでしょ」
「そんなことないけど。……それよりさぁ、箱根ないよ?」
それは僕も気づいていた。静岡のどこにも箱根は見当たらない。箱根は静岡じゃなかったのだろうか。おかしいな。
「あ、熱海がありますよ、先輩」
「ほんとだ。熱海だね。それで箱根は?」
そうこうしているうちに時間は流れ、九時になった。今日の労働もこれで終了だ。といっても仕事を上がったところで対して状況は変わらない。ちゃっちゃと後片付けをして、ランチのおばちゃんにバトンタッチ。それからはまた控え室でだらだらと過ごすのだ。
今日の僕の夕食はサラダうどん。先輩の朝食は和風ハンバーグ定食だった。バイト終わりの食事は僕が作るため、料金が発生しない。もちろんほんとはちゃんとお金を払わなければならないのだが、こんな朝早い時間には店長も社員もいないので、黙っていればばれないのだ。深夜最高。
「朝から定食なんてなかなかやりますね」
「な、なによ。文句ある?」
「いえべつに。……太りますよ」
「……わたしは朝ごはんだもん。遠藤くんこそ寝る前に食べるのはよくないと思うよ」
「僕は男だからべつにいいんです」
「そんなの関係ないと思うなぁ」
ご飯も食べ終わり、なおもうだうだやっていると、いつの間にか時間が過ぎていた。もうちょっとで正午である。時間を無駄に使うことにかけて、いまの僕らに勝るものはいない。ようするにお互い暇なのだ。
ふいに先輩の顔がアップになった。
机の上に体を乗り出して、僕の顔を覗き込むようにしている。ふわりといいにおいがただよって、僕は固まる。先輩の顔をいきなり間近で見るのは精神衛生上悪い。かなりドキドキしてしまう。
僕は動揺を悟られないよう気をつけながら、なんですか、と言った。
「遠藤くんはさ、彼女とかいないの?」
唐突な言葉に僕は面食らってしまった。昔もいまも、先輩とはあまりそういう話をしたことがなかった。だってあのころは中学生だったし、先輩を見る限りそういう影は感じられなかった。わざわざ考えるまでもなかったのだ。一方、今の僕はそういう話題を意識的に避けていたところがある。わざわざ考えたくなかったのだ。
僕は少しどもりながらも、いませんよそんなの、と答えた。
「そうなんだ」
先輩はやんわりと言った。
「あ、なんですか、そのかわいそうにみたいな空気は」
「そんなこと思ってないよ。でもまあ、いないよりはいたほうが幸せだよね」
「そんなことないと思いますけどね」
先輩は少しだけ遠い目をした。ここではないどこか別のところを見ているような目。それは過去を懐かしんでいるような感じではなくて、愛しいなにかを思い描いているんだろうと僕は直感した。
僕はそのとき、初めて先輩との間に時間の隔たりみたいなものを感じ、なんとなくこの先の展開が読めたりしたのだが、果たしてそれが僕にとってどうなのだろう、と考えた。
それでもはっきりとさせるべきことははっきりとさせなきゃいけない。そうじゃなきゃいけない。いま思うとなんでそんなことを思ったのかわからないが、しかしそのときの僕はちょっとホラー映画の主人公みたいなバカらしい使命感に燃えていて、思い切って先輩に聞いてみることにしたのだった。
どうかしていることは自分でもわかっている。でも人間なんてそんなもんだ。やめとけと言われると、それが自分に不利益を生むとわかっていても、無理やりにでもしてみたくなる。この場合、やめとけと言ったのは今の自分で、それでも押し切ったのは昔の自分だ。
「……先輩は幸せなんですか?」
「うん」
先輩はにっこりと笑って言った。
神様はイジワルだと思った。