筆を失くした記述者たち
険しい山道を越え、ようやく雲上都市の一つ手前の集落に辿り着いた。ここが最後の休憩地点で、過ぎればもう後戻りはできない。
私はとにかく横になりたかった。山岳系の獣人種の力を借りなければ辿れない道なき道は、私の身体をとことんまで疲弊させていた。頭がずきずき痛み、筋肉という筋肉が軋み、まるで重力が増したかのように身体が重い。一刻も早く寝そべって、それから温かいものを口にしたい。最早それ以外のことは考えられない状態だった。
しかし集落に入った途端、私の心は感動に包まれた。やはり伝承は真実だったのだ。私が見たのは、身体の一部が欠損した多くの男たちだった。ある者は指を数本失っていて、またある者は両耳が無くなっていた。片腕がまるまる無い者もいたし、両膝より下が欠け車輪の付いた板に乗って移動している者もいた。一人や二人ならともかく、目に入るほとんどの男がその状態なのだ。どう考えても不自由な日々を送っているはずなのに、男たちは皆一様に幸せそうな顔をしていた。
神は大事な物を奪わない。この集落にはそういう言葉があるそうだ。だとしたら、彼らが失った身体の一部は大切ではなかったということだろうか。私は己の手を見る。既述するための手。命の次に大事な手。しかしそれ以上考察するには疲れ過ぎていた。私は隊の皆と共に、集落の長の下へ向かった。長は八十は越しているだろう老齢で、両手両足が付け根から無く、さらに右目と鼻がなかった。三日間の滞在許可をくれた老人は、まるで子供のような笑顔をしていた。
滞在初日は、ほぼ寝て過ごした。この標高に、まだ身体が慣れていなかったのだ。夢に教授が出て来た。十年ほど前、彼は雲上都市へと旅立ち、そして戻らなかった。私を本当の息子のように可愛がったくれた教授。大事なのは帰り着くことだ。そして後世に記録を残すことだ。私は夢の中で訴えたが、教授は何も応えてくれなかった。
二日目にはずいぶん楽になったので、集落の住人たちに話を聞くことにした。この集落では欠損の度合いが大きいほど身分が高い。そして身分の高い者は一人では動けないので、大抵家の奥にいる。私が話を聞けたのは、比較的欠損の度合いが少ない者たちだった。右肘から先をすべて失った中年の男性は「すっかり左利きになったよ」と笑う。左半分の頭髪と耳を失った若い男は「これが神様の意思ですから」と微笑む。まだ五体満足の少年は「身体のどこか失うなんて嫌だよ。嫌だけど、神様は大事な物は残してくれるから」と照れを隠したような顔だった。
ここまで案内してくれた獣人種の女に、どう思う? と訊いてみた。アンタタチガばかナノカ、オトコガばかナノカ、うちニャワカンナイネ。獣人種には信仰という概念が無い。神を持たない彼女には理解が及ばないのだろう。
この先にある目的地、雲上都市は原始宗教の聖地だ。そこには神に仕える巫女がいて、彼女たちはその身に神を降ろすことができる。果たしてそこで何が行われているのか。伝承としては聞き及んでいたが、この集落の様子を見れば、やはりすべては事実なのだろう。
雲上都市における宗教儀式。それは神を降ろした巫女との性交だ。神との一体化。異教徒の我々からすれば、ただの儀式に思える。しかしそうではないのだ。なぜならその交わりには、常軌を逸した快楽と共に、身体の欠損が伴うのだから。この集落の男たちが身体の一部を失っているのは、つまりはそういうことだった。
いかなる奇跡が起こっているのか。私はそれを見たい。奇なる世界をこの手で記し、後世の人々に伝える。その為にここまでやって来たのだ。私の使命。私の生きている、それが意味だ。
三日目の朝を迎えた。朝食は雲上都市より派遣されている神官が用意してくれた。この集落にいる女性は、すべて老いた神官だ。ふと思いついて、私は教授のことを訊ねてみた。彼女は目を細め、ゆっくりした動作で頷いた。老神官によると、教授は今も雲上都市に滞在しているらしい。彼の手は無事ですか、と訊きかけて止めた。仮に教授が快楽に溺れて戻らなかったのだとしても、その手を失うわけがない。私たちの記述する為の手は、たとえ神でも奪えない。
出発前に、長に挨拶に向かった。長は笑顔で横たわっていた。ふいに傍らの世話役が、彼の腰にかかった布を捲る。私はぎょっとした。長は下穿きを付けていなかった。八十を越えた男の局部が剥き出しになっていて、さらにそれは若々しく勃起していた。長はそれを揺らす。手足が無い彼にとって、それが別れの挨拶なのだということに気付くまで、大分時間がかかった。激しく動揺しつつも、私は目礼して外に出る。集落の出口には多数の男たちが集まっていた。彼らは揃って全裸で、長と同じように屹立したもので別れを告げる。何なんだこれは? 文化が違うことは理解しているが、余りにも未開過ぎないか? 私たちは恐怖すら覚え、逃げるように集落を後にした。
霧のような雲を掻き分け、文字通り雲の上にある都市へと向かう。私の頭の中は、先程の光景への疑問で一杯だった。あれは何だったのだろう。どうしてあんな風習が生まれたのか。ふと気付いたのは、男性器の欠けた者がいなかったことだ。あれほど身体の様々な箇所を失っているというのに、なぜあの部分だけ。私は足を止めた。神は大事な物を奪わない。この集落に伝わる言葉。そんな馬鹿な。あれはまさか、そういう意味なのか? 己の手を見る。記述する手。命の次に大事な、はずの……。
すべては雲に包まれ、手元すら、もう何も見えない。