そして、『推し、燃ゆ』※ネタバレ少し有り。


何をするにも期限を思い浮かべる。

そんなタイプの私は、

かつての推しを背骨にし自分にインストールすることはできなかった。

アイドルはいつか辞めていく。

そんな私と主人公の明らかな違いはあちこちに見受けられ、

表現がいまいち読み取れない箇所と、強く共感する箇所に分かれた。

例えば、

”夜の海”の描写の暗さ。

主人公の会話とは言い難い家族とのやりとりを

会話と言ってのける感覚。

コンサートの合間の興奮が耳の後ろを流れる様。

これらの素晴らしい表現がなぜか刺さらなかった。

感覚が呼び覚まされる感じがなく、読んでいて苦痛であった。

しかし、その苦痛は

感覚がわからない自分の経験値の低さに

嫌気がさしていただけだったようにも思う。

読んでいるとだんだんと

主人公と自分を重ね合わせはじめ、

俯瞰出来なくなっていくのが面白い。

主人公はおそらく10代の後半を生きている。

なのに、彼女の周囲の空気は

常に酷いにおいがして澱んでいるように感じる。

そして、炎上しているにも関わらず

推しは相対的にさわやかであった。

ただ、真幸については

彼女のブログでも思考途中でも

共感できない部分が多い。

単純に私のタイプではないのだろう。

読み進めるにあたって

かつての推しを脳裏に思い浮かべながら

推しを同化するのが少し大変だった。

”燃えるような奴のファンにはならない”

常にそう思って生きている。

かくゆう私のかつての推しは”よく燃える人物”だった。

燃えると思ってファンになるわけではない。

熱狂できる人物に対峙すると

そういう言い訳もしたくなる。

彼は2020年にアイドル活動を休止した。

解散でも脱退でもなかった。

ただの人にはならなかった、ということだ。

主人公の推しは、ただの人になった。

それは、大きな違いだと理解した。

追いかけてはいけない。

しかもそれは不意の引退。

主人公がおばあちゃんが死んだときに使っていた

チョコの例えは、

推しの引退発表時に使われるべきだと、私は思った。

推しの引退後、

晒された住所へ行くことは、

アイドルの真幸はもういないのだという確認。

傷つくのがわかっている行為は、

自傷行為に近いような気がした。

彼女は決してピリオドを打つため、

意気込んで行ったわけでもなく、

解釈の続きを惰性でしているようにも思えた。

主人公の言葉を借りると、

肉体に行かされていたのかもしれない。

その住所にいる誰かと目が合った時、

彼女はやっと我に返った。

自分に向き合うことを

この時初めてできたんじゃないかと思う。

見ないようにしていた腹立たしい

自分の生きざまに向き合い、

生きる姿勢を自分で示した最後は、

私には希望に思えた。

読了はさわやかでも、また気持ち悪くもない。

ただ一人の女の子の人生の一部を切り取って見ていた。

という感覚に陥った。

普通って基準は誰が決めるんだろう。

普通に生きてるって誰目線なの?

知らない誰かの人生を切り取ったら、

少なからず奇妙で、謎めいているに違いない。


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