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経験したことがないことに対して感じるノスタルジーについて


八幡平のある民宿について

最近、「旅する少年」という本を読みました。

1961年生まれの作家である著者が、中学生の頃に日本中を(主に一人で)旅行した記録です。
その中に、1976年に著者が西十和田ユースホステルに泊まった時にペアレント(ユースホステルの管理者)であった「熊さん」から聞いた情報として、下記のような話が記載されていました。

「……おゆきさんが、八幡平の山中で、ランプの宿を始めたんだ。電話もない。だから泊まるにも、直接行ってみるしかないんだが」
(中略)
噂のぬし、おゆきさんという女性は、もともと東京のほうからの旅行者だったらしい。このあたりの風土が気に入り、何度も旅をしてきて、そのうち、八幡平の大沼畔にあったユースホステルで住み込みのヘルパーとして働き始めた。熊さんともそうしたなかで知り合った。だが、とうとう今度、彼女は山中の廃屋を借り受けて、単身、旅人宿を始めたのだ、というのである。

「旅する少年」p311~313

これは、以前秋田に旅行に行ったときに、宿の候補の一つとして検討した「ゆきの小舎」のことです!常連さんがたくさんいそうで、よそ者が訪問するのがためらわれたので、結局ほかの宿に泊まったのでした。そして、今年になって約50年の歴史を終え、閉業してしまったそうです。
この文章と、この後に書かれていた「ゆきの小舎」に泊まったときの様子を見ると、私には縁がなかったはずのこの小さな宿がなぜか懐かしく思えてしまいました。

ただ、ここでふと、不思議に思ったことがあります。

なぜ、ゆきの小舎どころか、ユースホステル自体に泊まったこともない私が、この記載を懐かしく思うのだろうか?

「オルソン・ハウス」に感じるなつかしさ

ここで思い出したのが、先日見に行った「アンドリュー・ワイエス展」です。

アンドリュー・ワイエスは20世紀にアメリカ東海岸で活躍した画家です。この展覧会は、彼の作品のなかでも、19世紀後半に建てられた古い農家屋敷である「オルソン・ハウス」を描いた作品群を取り上げたものです。

オルソン・ハウスは、ワイエスが初めて訪れた1939年の時点で住民はすでにオルソン姉弟2人だけとなっており、この二人が老いるにつれて手入れが行き届かず、荒れていく途上にありました。そのようなオルソン・ハウスを描いた作品群は、これもまたノスタルジーを感じさせるものです。

「Alvaro & Christina」
https://samblog.seattleartmuseum.org/2018/01/wyeths-cast-of-characters-christina-olson/ より
「Alvaro, Painting His Dory」
https://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/1f774e461e324d3de7b21350af5b226a より

いつぞや書いたことですが、私は

今現在体験しているものは色に満ち溢れたカラーでこの身に迫ってきます。しかし、これが過ぎ去って頭の中にだけ残ったもの、つまり過去になったとたんに色は失われてモノクロになる

と思っています。

そして、オルソン・ハウスの絵も全体的に彩度の低い過去を思わせる背景の中に、一部だけ鮮やかな色合いを挿入するというパートカラー的な手法も用いて、過去と現在をつなげるような効果を示しているように思います。

ただ、ここでまた繰り返しです。

なぜ、オルソン・ハウスに住んだことがなく、それどころか政令指定都市の都会生まれ、都会育ちの私が、このような絵画を見てノスタルジーを感じるのだろうか?

「昭和ノスタルジアとは何か」を読んで

ここでまた思い出したのが、だいぶん前に読んだ「昭和ノスタルジアとは何か?」という本です。

この本は、テレビ番組や映画などにおける「昭和ノスタルジア」的な作品(具体的には「ALWAYS 三丁目の夕日」「東京タワー―オカンと僕と、時々、オトン―」「プロジェクトX―挑戦者たち―」など)を取り上げており、個人的に感じるノスタルジーとはやや性格が異なるのかもしれませんが、個人的には下記文章で思うことがありました。

日本では戦前と戦後を分断し、終戦を起点とした「長い戦後」が言説空間で続いてきた。
(中略)
おそらくそれが、繁栄を築いた高度経済成長期前後の時代、およびその時代を取り上げたポピュラーカルチャーが「古き良き時代」への素朴な郷愁と回顧であると、言説空間が自明視した、あるいは自明視することを促された最大の理由であろう。そしてそれは「昭和レトロ」「昭和三〇年代ブーム」という当時を無批判に肯定する捉えられ方がなされ、その結果、バルトが言う「深みがない故に矛盾のない世界、自明性の中に広げられた世界を組織する」神話的イデオロギーとして広められたのである。

「昭和ノスタルジアとは何か」p431~432

二一世紀初頭の「昭和ノスタルジア」のポピュラー・カルチャーの作り手たちは、「現実」の過去の記憶を修正し、「想像上」の固有ヘゲモニーのナラティブの造形を試みるのである。

「昭和ノスタルジアとは何か」p446

うまく抜粋ができなかったのですが、とくに「深みがない故に矛盾のない世界、自明性の中に広げられた世界を組織する」という点がまさにノスタルジーの本質なのかなと思います。つまりは、ノスタルジーは単純化・理想化された世界を都合よくつくり出して、それをあたかも実際にあった過去のように思いこむ、(自分で自分に)思い込ませることで成り立つものなのかもしれません。

だとすると、「なぜ、経験したことがないことに対してノスタルジーを感じるのだろうか?」という問いそのものが間違いで、「経験したことがないことだからこそ、ノスタルジーを感じるものだ」ということなのかもしれません。これは、大昔の「延喜・天暦の聖代視」とか「末法思想」とかと、過去=良い、現在=悪いという世界観においては同じなのでしょうか。
それにしても、人間にこんな「ノスタルジー」を感じる機能が備わっていることの理由がよくわからないのですが…。

*この本は本当に内容が多く、内容全体を紹介するのは私の手に余ります。上記引用文献からもご想像いただけるように、文章がかなり難解で読みづらいのですが、内容は整理されていて引用文を見たときに感じるよりは理解しやすいです。個人的にはなるほどと思わされるところの多い本だったので、興味と気力のある方はぜひ読んでみていただけるといいと思います。


なお、タイトル画像は水産庁の「水産ノスタルジー制作委員会」なるページから拾ってきました。ただ、このページ以外に情報が全くなく、何を目的にした委員会なのかがよくわからないのですが…。

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