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明治の都会人による田舎暮らしの実態

先日、民放連が「青少年に見てもらいたい番組」なるもののリストを公表したそうです。

私はここ10年ほど、(プロ野球中継を除いて)ほとんどテレビを見ない生活となってしまったために、挙げられている番組の中にはよくわからないものも多いです。
ただ、「ガイアの夜明け」については、

“闘い続ける人々”の姿を追いながら、21世紀の新たな日本の姿を模索する経済ドキュメンタリー番組。

https://www.oricon.co.jp/news/2327937/full/

と紹介されていますが、レオパレス問題の回なんかを思い出すと、どちらかというと経済版文春砲というイメージが強いです。まあ、青少年に見てもらって、この世の中はいろいろ簡単ではないと知ってもらうという効果はあるかもしれませんが。


それはそうと、「青少年に見てもらいたい番組」に挙げられているもののなかで気になるもう一つの番組が「人生の楽園」です。

憧れの田舎へのIターン
愛する故郷へのUターン
50歳を過ぎてからの新たな挑戦…。
“自分にとっての人生の楽園”を見つけ、
充実した第二の人生を歩む人たちの暮らしぶりを
美しい風景や美味しい食べ物などと共に紹介します

https://www.tv-asahi.co.jp/rakuen_2023/about/

いわゆる、年を取ってからの田舎暮らしを礼賛した番組です。「田舎暮らしへのあこがれ」は、いまやブームを越えてある種のジャンルとして定着した感があります。この「田舎暮らしへのあこがれ」について、書いてみようと思います。


「田舎暮らしへのあこがれ」は昔からあったのか?

そもそも、私が子供のころには「田舎への移住に対するあこがれ」という流行はあまりなかったように思います。ムツゴロウの動物王国が人気となり、別荘ブーム、スキーブーム、ハイキングブームなどはあったのですが、これはあくまでも自然(田舎)をレジャーの対象としてとらえただけであり、年を取ってから田舎に転居することがそれほどロマンチックにとらえられる対象ではなかったと認識しています。
これは、働き盛りの親世代に農村出身者がまだ多かったため、田舎への移住が「あこがれ」というよりは「現実」としての対象だったからでしょう。

とかえらそーなことを思っていたのですが、地元の古本市で見つけた徳富健次郎「みみずのたはこと」を読んで、完全に考え方を覆すに至りました。(私は岩波文庫版を読みましたが、青空文庫で無料で読めます)

大正元年に初版が発行されてから、関東大震災直後の大正12年までに108版を重ねるロングセラーとなった作品です。その際の宣伝文句を引用します。(読みづらい漢字や旧仮名字体は、適宜ひらがなや新字体に変えています)

過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短篇小説、瞑想、書翰、紀行等を集む。

語に曰く、神は田舎を造り、人間は都府を作ると。著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心切に都会と田舎の間に架する橋梁の其板の一枚たらん事を期すされば本書は信仰と趣味、理想と煩悩の間に徘徊彷徨せる著者が懴悔の一片とも見るべく、又多感多情の著者なるレンズを透かして印象せられたる田園生活の印画とも見るを得べし。清新なる田園の小景、涙を含む笑に満てる物語、平淡の中戦慄すべき恐ろしき説話、詩化せられたる教訓、有象より無象に通う神秘の暗示、巻中に充満す。都会住者は読んで麦の穂末を渡り来る暮春の薫風の如き自然の気息に接せよ、田舎に住む人は之れに依りて新に吾周囲を見るの眼を開け。九葉の写真版は本文を助けて説話の舞台を読者の眼前に躍如たらしむ。

現代のわれわれにとってはちょっと読みづらいですが、まさに田舎暮らし礼賛の書です。下記で、詳しくこの「みみずのたはこと」について触れたいと思います。

明治の田舎暮らし本「みみずのたはこと」

著者の徳富健次郎は、徳富蘆花の名義で発表した浪漫主義的な小説「不如帰」「おもひ出の記」などで、すでに文壇ではよく知られた存在でした。
彼は明治40年、40歳で当時の千歳村粕谷集落(今の世田谷区)に一軒家を購入して転居しました。この、粕谷暮らしに関する随筆をまとめたものが「みみずのたはこと」です。

冒頭の「故人に」にはこう書かれています。

ただわし一個人としては、六年の田舎ずまいの後、いささか獲たものは、土に対する執着の意味をやや解しはじめた事である。わしは他郷からこの村に入って、ただ六年を過ごしたに過ぎないが、それでもわが樹木を植え、わが種を蒔き、わが家を建て、わが汗を滴らし、わが不浄を培い、しかしてたまたま死んだわが家の犬、猫、鶏、の幾頭幾羽を葬った一町にも足らぬ土が、今はわしにとりて着物の如く、むしろ皮膚の如く、居れば安く、離るれば苦しく、これを失う場合を想像するに堪えぬ程愛着を生じて来た。おのれを以て人を推せば、先祖代々土の人たる農その人の土に対する感情も、その一端を覗うことが出来る。この執着の意味を多少とも解し得る鍵を得たのは、田舎住居のおかげである。

都会から田舎に移り、母なる自然に溶け込み、浄化された生活を送っているさまが目に浮かぶようです。
彼と愛子夫人との田舎暮らしに、途中でもう一人住人が加わりました。兄の徳富蘇峰のもとから養女としてもらい受けた鶴子です。

わしの家族は、あるじ夫婦のほか明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴という。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年もらって来た頃は、碌々口もきけぬひよわい児であったが、此の頃は中々強健になった。もらいたては、わしがゆいつけおんぶで三軒茶屋まで二里てくてく楽らくに歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量四貫余。友達が無いが淋しいとも云わず育って居る。子供は全く田舎で育てることだ。たこすら自由に飛ばされず、まりさえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車、馬と怪俄させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育つ子供は、本当にみじめなものだ。雨にぬれてはだしでかけあるき、栗でもいもでも長蕪でも生でがりがり食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。

これもまた、自然派に典型的な文章だと思います。子供は都会の中で窮屈に育てるよりも、田舎でのびのびと育つほうがいい。勉強はあまりできなくてもいい。ただ、自然の中で自由にさせておけば、むしろ丈夫に育つ。という価値観です。
まるで高度経済成長期に(そしてそれ以降にも)よく見られた考え方だと思います。明治時代にもこのような考え方があったのだということは驚きでした。

内容も、田舎で住むための家を購入する顛末から、田舎で出会った印象的な村人たち、村人との何気ない会話、病で亡くなったり貧困により行方知れずとなった人々の記憶、自然など、多岐にわたります。
個人的には「麦の穂稲穂」という章が最も面白いと思います。田舎における1年12か月の様子をそれぞれの月ごとに記したものです。一例として、三月の節の冒頭を引用します。

武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞む。庭の梅の雪とこぼるる辺に耳珍しくも藪鶯の初音が響く。しかしまだ冴え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午には輪番に稲荷講の馳走。てんでに米が五合に銭十五銭ずつ持寄って、飲んだり食ったり歓を尽すのだ。まだまだと云うて居る内に、そろそろ畑の用が出て来る。落葉掻き寄せて、甘藷や南瓜胡瓜の温床の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯も植えねばならぬ。

初春、まだ寒の戻りがありつつも、農作業が始まって気ぜわしい様子が、蘆花特有のテンポの良い文章で描写されています。楽しくて楽しくて仕方ない!という文章ではないにもかかわらず、なんとなくこういう暮らしが人間として自然なものだと思わせられてしまうのは、蘆花の文章力のたまものだと思います。

明治人があこがれた田舎暮らしの実態

現代の話に戻ります。田舎暮らしが一つのジャンルとなったにもかかわらず、「田舎暮らしはそんなに甘くない」というような批判も多く、しばしば論争のネタになったりもします。

まだまだいくらでもでてくるのですが、きりがないのでこのあたりにしておきます。この種の話は、「田舎暮らしの実態を何も知ろうとしない都会人の無知に対する非難」「田舎暮らしに成功した人にたいする妬み」が織り交ざったものになっているのですが、当事者からの信頼できる声というのは意外と少ないように思います。(ある女性YouTuberが北海道の山間部に移住したものの、セクハラやストーカー被害で撤退したというような、センセーショナルかつ真相がよくわからない話などはありますが…)

それでは、先述の「みみずのたはこと」の実態はどうだったのか?が気になります。なんと、ネットを検索すると、養女として徳富健次郎とともに暮らした鶴子の回想インタビューを発見しました。

矢野鶴子さんに聞く : 蘆花夫妻の思い出

こんなものまで無料で読めるとは、すごい時代になったものです。
1999年から2003年にかけて、当時90歳代半ばであった矢野鶴子さん(旧姓 徳富鶴子さん)に対して行われたインタビュー記事です。

この中で、鶴子さんはこうおっしゃっています。

例えば、「菜食主義」と云って魚肉を食べないと宣言してもすぐに止めたり、粕谷の転居に際しては、「農とともに在る生活」と称して百姓の心に寄り添う、を信条に「美的百姓」を宣言、「百姓生活」を始めても束の間で止め、結局は知り合いや近所の農家に耕作を依頼することになってしまったでしょ。今おもえば、「農は予の最も好むところ」なんて云ってますが、「農」と云うより樹木や植木、草花など「植物」が好きだったんでしょう。
粕谷への移住では、本籍までここに移して千歳村の村民の一人として百姓の生活を賛美する一方、みすぼらしく汚い着物姿の子供たちと一緒では鶴子が不潔になるとか、子供が使う「だんべえ」言葉がうつるからと云って、私を地元の塚戸小学校に入学させなかったことなどが、その端的な表れですよね。

蘆花は、粕谷の田舎住まいで質素な生活をしていたように思われていますが、本当は「贅沢な人」で、「貴族趣味」の人でしたよ。

「みみずのたはこと」では、健次郎は自らを「美的百姓」と名乗り、百姓としても中途半端ものであることを自嘲的に認めていました。しかしその田舎暮らしは想像以上に表面的なものでした。健次郎はたんに「百姓的なもの」の雰囲気を好んだだけであったと同時に、都会的なものが優れているという価値観を捨ててはおらず、結局は単なるロマンチストだったのでしょう。また、健次郎はすでに作家として地位を築きぜいたくな暮らしに慣れていたために、田舎の本当に質素な暮らしには耐えられなかったということでもあったようです。

鶴子は、健次郎のことを「ひじょうに「芝居ッ気」のつよい人」と評します。そのうえで、彼の生活については、

百姓の真似事をした「百姓ごっこ」でしょう。

と、ばっさり批判しています。

「百姓ごっこ」「子育てごっこ」の末に

鶴子は、彼女と養父健次郎との生活すらも「子育てごっこ」と表現しています。そのうえで、彼との生活についてはこう回想しています。

叔父・蘆花は、私のことを「可愛い、可愛い」と、猫かわいがりで、子どもには贅沢過ぎると思われるほどのものを、惜し気もなく買い与えておりましたの。オモチャのように、「可愛い、可愛い」の感覚のみで、実の子のように、私(鶴子)のことについて心底から悲しみ、痛み、悩み、挫折することがなかったんでしょ。

そして後年、健次郎は兄の蘇峰と仲たがいをしてしまい、突然鶴子を蘇峰のもとに返してしまいます。鶴子を養女に迎えてから5年8か月後のことでした。これは鶴子にとっては深い心の傷となりました。

今、振り返ってみても、青山に帰ってから粕谷のことを時々思い出しましたが、「楽しい思い出」は、全然ありませんでしたネ。

インタビューでは、鶴子は「みみずのたはこと」について、こう断言します。

これは、非常に大事なことなのではっきり申し上げますが、『みみず』も紀行文「死の陰に」も、私の経験したこと、私の記憶とは大分違っております。貴方や読者の皆さんは、あの通り、あるいは、あれが事実とお思いかもしれませんが、実際とは非常に相違していることを明確にお伝えしたいんです。特に、『みみず』は、小説とは違って、生活記録あるいは随筆風な文章なので、ついついあれが恒春園での生活そのものと思われるんです。人は誰でも「美しい誤解」に酔うのは、よい心地で御座いますからね。

私自身、現代においてもこれほどはっきりと「美しい田舎暮らし」の虚像を暴いたものは見たことがありません。(だれが言ったのかわからないような真偽不明のものはたくさんありますが…)
あこがれの田舎暮らしと、その実態の乖離というのは、機械化、都市化が進んだ高度経済成長期以降の話に限った話ではなく、すでに明治期にはそういったことが発生する土台はできあがっていたのでした。

現代における田舎暮らしは、交通の発達や通信網の整備により昔よりはまだ難易度が低いのだと思います。しかし、健次郎のような芝居っ気とロマンチシズムだけを武器にして(時には子供連れで)田舎暮らしに飛び込む方に対しては、個人的には危うさを感じてしまうのも事実ですが…。

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