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被害者意識の安仁屋算
世の中に広がる「安仁屋算」的なもの
そもそも「安仁屋算」とは何なのか?
安仁屋宗八の名前は一般にはあまり知られていないと思います。
元プロ野球選手なのですが活躍したのは50年ほど前のことであり、その後解説者、野球評論家に転身していますがRCC(中国放送)に主に出演しているために、全国放送ではあまり見る機会が無いからです。
安仁屋は極めてカープ寄りの立場からの評論を行うことでも知られています。
そんな彼が、2011年の広島カープの勝ち星予想を行った際の計算が、のちに「安仁屋算」として知られるようになりました。
下記画像をご参照ください。(ここから拝借しました)
![](https://assets.st-note.com/img/1736552364-K5hpokLNtOdMquUyJnwa0Hs3.jpg?width=1200)
プロ野球に詳しくない方にはピンと来ないかもしれませんが、実現不可能予想です。
前田健太が18勝、大竹寛が16勝、篠田純平が10勝…というのは、個別に見るとかなり楽観的な予想であるとはいえ、絶対にありえない数字ではありません。しかし、これらがすべて両立することは絶対に不可能です。
なぜなら、ある投手の勝ち星が多い場合は必然的にその投手の登板機会が増える上に、一試合で勝ち投手は一人しか発生しないため、同一チームの他の投手の勝ち星は減少するためです。
つまりは、前田健太が18勝した場合には、他の投手の勝ち星は減り、福井優也の9勝というのが非常に難しくなるのです。
安仁屋算は端的には、
個別要素の予想最高値自体はあり得る値であっても、これらを単純に合計した値は原理的に不可能な値となる
ことに起因しています。そして、これは
登板機会、試合数をダブルカウントして、各投手に勝ち星を割り振った
ためであるともいえるでしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1736553401-kduzUY8wWaHeMcgN1OXq24B0.jpg?width=1200)
「安仁屋算」自体は珍しいものではない
上記を見ると、安仁屋算はおふざけにしか見えないかもしれませんが、意外とこういうものは世間ではよく見られると思います。例えば、ある製品の市場予測などが挙げられます。
例として、2030年のEVの販売台数予測を挙げてみます。
このページによると、2030年には世界のEV販売台数は5340万台と予想されています。
![](https://assets.st-note.com/img/1736558410-IZvQwNE2LlPfOMUakmKt8Tj6.png?width=1200)
一方で、個別のメーカーのEV販売台数予測をネット上でいろいろ探してみると、下記表のようになります。
![](https://assets.st-note.com/img/1736558520-2TghlNXJUO9CVEbentq1d7kM.png?width=1200)
中国メーカー、テスラ、フォード、トヨタ、ホンダ、VW、BMW、現代、起亜データまとめ
GM、ルノー、日産、マツダについてはネット上に根拠となる資料を集めることができなかったのですが、それでもこの段階で6340万台となり、総販売台数予測を超えた値となりました。
これは、各社がEVのシェアを食い合うために、一社が目標を達成した場合他社が目標達成できないためなのですが、各社が独自に予想した値を足し合わせるとシェアの食い合いが考慮されないために、こういうことが起きるのです。
このように個々の予想値自体は絶対にありえないものではないにしても、それらが全部同時に達成されることはないという「安仁屋算」的なものは、世にありふれたものなのだと思います。
最近読んだ本の話
エビデンスを嫌う人たち 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?
ここで唐突に、最近読んだ本の話をします。
漫画の福岡太朗さんという方がいて、この方のnoteで紹介されていた本「エビデンスを嫌う人たち」を読みました。
この本は、科学否定論者の考え方を分析したもので「フラットアース国際会議(FEIC)」という地球は平面だと信じる人たちの会合に潜入するところから始まります。
この本では多くのことが述べられていますが、今回の私の記事に関係ある所だけをつまみ食いすると
科学否定論と親和性の高い陰謀論者に対しては、陰謀論を否定するために証拠を提出しても全く意味がない
陰謀論の論理展開に従ってしまうと、自分の理論に対する工程と否定の両方が自説の正しさを保証するものとして機能してしまうからだ。
自説が証拠によって裏づけられるのは大歓迎。
だが反対に否定されるのなら、それは真実を隠蔽する邪悪な人間のせいにちがいない。
しかも、自説を支持する証拠が全く見つからないのは、邪悪な人間が持つ力の強大さの証にほかならず、これもまた自分たちが正しいことを示している。
陰謀論者は、多くの場合根深い被害者意識を持っている
よく聞かれるのは、「あちら側」の専門家はみな偏っているか、そうでなければ、特定の主張を広める「広報」だからという理由だ。
連中は金をもらい堕落しきっているので、真実を語らず、それゆえ信じるに値しないというわけである。
しかしその一方で、ほとんどの科学否定の背後には根深い被害者意識がある。
本心では、「本物」とされる科学者が自分たちの主張を真剣に受け取らず、自分たち側の専門家のデータを検討しないことに不満を感じているのだ。
ということです。
この二つの内容を合わせると
「陰謀論者は被害者意識を持っていることが多く、そして事実をもとにした証拠を見ても簡単には自分の主張を変えることはない」
ということです。
彼らは自分の主張にあう事実のみを重要視し、自分の主張に反する事実は「陰謀」=自分たちが不当に扱われる証拠と考えるために、あらゆる事実が自らの主張を補強する作用をもちます。(これを本書では「チェリーピッキング」と呼んでいます。)
よって、彼らの陰謀論に対する信用度が深まれば深まるほど、より周囲の事実からさらに陰謀論の信用度を向上しやすくなるという正のフィードバック効果が発生してしまうのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1737210575-bcVwHfh3ZyE9Ld6koiOaBNPX.jpg?width=1200)
犠牲者意識ナショナリズム――国境を超える「記憶」の戦争
もう一つ、以前読んだ本の話をします。
この本では「被害者意識」ではなく「犠牲者意識」という言葉が使われていますが、これは
まずは、戦争と植民地主義、ジェノサイドの「被害者」が存在し、彼らを祖国や民族、開放、革命、平和、人権、民主主義といった大義のための犠牲者に昇華させることで、初めて歴史の舞台に登場するのである。
ということで、被害者がナショナリズム高揚のために利用される際に「犠牲者」として祀り上げられることを言っており、被害者の部分集合と考えてよいと思います。
そして、印象に残った文章の一つを引用しますと(これもまたつまみ食いなのですが)
犠牲者意識ナショナリズムの物語では、誰がより多くの犠牲を払ったのかという競争が繰り広げられる。
より多くの犠牲者を出した側が、より大きな道徳的正当性を確保すると信じているからだ。
ということで、自らの所属する共同体の被った犠牲(被害)が大きければ大きいほど正当性を主張できるということです。
これは確かにその通りで、戦争でもより死者の多かった国が被害者として認められ、死者の少ない国は加害者扱いされることが多いです。
(この例を出すと国粋主義者のように思われる可能性があり、あまり適切ではないのですが)例えば南京大虐殺で何人の方が犠牲になったかということでよく議論になるのですが、何人であろうとも亡くなった方にとっては悲劇であり、その方個人が受けた被害の大きさは全く変わらないのです。
しかし、何十万人もの方が亡くなったのか、または死者は千人に満たなかったのかにより、被害を受けた方々の訴えの正当性が左右されるかのように、民族主義的な諍いがあるのは事実だと思います。
上記2冊の本の話を合わせると
被害者意識を持った方の少なくとも一部は、それと相反する事実を前にしても主張を変えず、むしろ被害者意識を補強する傾向がある
被害が大きければ大きいほど、道徳的な正当性が強まると考えられる場面が多い
ことから、
無意識的、意識的の両方の場合があるだろうが、一部の被害者は自らの被害を大きく見積もる傾向があり、被害を受けたという確信が強ければ強いほどその過大さは大きくなる
ともいえると思います。
年末年始のSNS上でみた諍いについて
私はSNSと言えば主にXを使用しています。
X上ではいつも争いに満ちていて、それが嫌になって他のSNSに対比なさる方も多いそうですが、私自身は
「喧嘩と火事(炎上)はネットの華」
というような悪い性格の人間なので、X上の諍いは他人事としてぼんやりと眺めていたりしました。年末年始もいつも通り多くの諍いが発生していたのですが、特に多かったのが男女間の罵りあいです。
具体的なポストを引用するのはやめておきますが、Xでの男女間対立は基本的には
男性が女性を不当に扱ったことをひたすらポストするアカウント
女性が男性を不当に扱ったことをひたすらポストするアカウント
を主軸として成り立っています。
確かに、男性が女性を不当に扱う場面が存在しており、かつ社会的には男性が優遇されることがあるのは確かだと思います。一方で、女性が男性を不当に貶めることがあり、女性が過剰に優遇される場面があるのも確かです。
しかし、上記のアカウントはそのうちの片方のみを世の中の出来事の代表例であるかのように扱っています。
男性が不当に扱われていると主張する人は、上記アカウントから男性が不当に扱われた事実を多く集め、もともとの主張に対する確信を強めます。そして、女性が不当に扱われた例を見たとしても、それは些末なことであったり、または「敵(フェミニスト等)」によるでっち上げ、過大な騒ぎ立てであるとみなします。
女性が不当に扱われていると主張する人も同様です。
その結果、女性が不当に扱われた事件の記事を見た際には、
男性が不当に扱われていると主張する人:
男性が被害を受けた事実はもっと多くあるはずなのに、敵によって男性が迫害されているためにそうした事実は黙殺されて、女性が被害を受けたことばかりがピックアップされる女性が不当に扱われていると主張する人:
これこそが、女性が迫害されている証拠である
とまるで正反対の反応を示し、どちらの陣営も被害者意識を深めるという不思議な結果をもたらすのです。
そのため、世の中で実際に発生した被害の量よりも、男性が不当に扱われていると主張する人や女性が不当に扱われていると主張する人が考える被害の量が上回るという現象が発生し、被害者意識の総量が実際の被害量を越えてしまうのです。
これはまさに、「被害者意識の安仁屋算」ともいえる状況なのだろうと感じました。
彼らは、被害者意識が強ければ強いほど、世の中のあらゆる事実から自分の主張を強めやすくなるという、正のフィードバック効果を発現します。
そのため、世に実際に存在する被害と、被害者意識の総量の差は増加する方向にしか働きません。
SNSのように気軽にいろんな情報を入手できる社会では、安仁屋算による分断は避けがたいものなのかもしれないとも感じます。(たとえ検閲によりそういったポストの表示を防いだとしても、それは「敵」による妨害、世論操作だとしてやはり元の主張を強める作用を持ってしまいそうに思います…)