「ブータン山の学校」を観て・・・教育はどうやったら未来に触れられるのか
「ブータン山の教室」という映画を観ました。
海外でミュージシャンとして成功することを夢見る青年が、期間限定の「先生」として山あいの村に行き、そこで村人たちと過ごす話。
(ここから先は、映画の内容にも触れるので、今から観る予定のある方はご注意ください。)
予告編を観て、期待したことが、期待以上の情感を持って描かれている映画でした。
遠くまで広がる山々と高い空。山に響く歌の奥深さ。村で過ごす人々の生きている実感の伴う暮らし。そして、何よりも、子どもたちの真っすぐな瞳。
美しい映画でした。
でも実は、その美しさの中に、すっと咀嚼できない、納得できない何かが残ったのです。それは、「教育」って何だろう、という想いでした。
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予告編の中にも登場する象徴的なセリフがあります。「先生は未来に触れることができる」。そして、最寄りの集落から歩いて6日もかかる村に住む人たちは、町から先生が来てくれることを切望するのです。「教育によって未来の可能性が広がる」と。
けれど私はこの映画の中で、「先生は未来に触れることができる人」と実感することができませんでした。(先生は未来に触れられる人であってほしいと願いながら観ていたのに。)〈町の教育〉の授業をする青年が、村の子どもたちが未来に触れるための示唆を提供できたようには見えなかった。それどころか、子どもたちが村での生活を大切に生きるためには、〈町の教育〉は余計なことなんじゃないかとさえ、思えてきました。
電気も水道も通っていない、ラジオもテレビもないこの村の暮らしの在りようは、全編を通して、ずっと肯定的に描かれています。人々は、家畜と共にくらし、自然の全てに歌を捧げ、勤勉に、朗らかに生きています。文明と呼べるものはないけれど、ここでの生活に必要な知恵や、共に過ごすための歌は、親から子へ、祖父母から孫へと伝えられています。
町からやってきた「先生」が教えるようなことは、今の村の生活には何も必要がないのです。先生から教わった算数や英語をもし生かせる場があるとしたら、それは、子どもたちが村を出て、町で暮らす時です。
観ているうちに、〈未来の選択肢が広がること〉とは、〈村を出て町で暮らすこと〉なのか、それは望ましいことなのか・・・と、よく分からなくなってきます。
実際の村の暮らしは、不便で貧しくて、ここから離れたいと思う人もいるのかもしれないけれど、それは映画の中では、ほぼ描かれません。「文明化と引き換えに失った幸せはここにある」と言わんばかりに、愛おしさを持って描写されているのです。
子どもたちは、もっと豊かな暮らしと比べることさえ知らず、今の自分の村で等身大に、存分に、そして懸命に生きています。幸せそうに見えます。ただ、幸せそうに見えるのは、他の生活と比べることを知らないからかもしれません。
子どもたちに、この村の外には、こんな世界やこんな暮らしがあるんだよ、と、教えることが、子どもたちにとっての「知る権利」なのかどうか、私には分かりません。中途半端に〈町の教育〉を施すことは、自分たちよりも豊かな他の生活を知ってしまい、自分たちの村を否定する気持ちに繋がるかもしれません。
この村で、子どもたちが幸せになる教育って、何をすればいいんだろうか。私が先生の立場だったら、どんな授業をするだろうか。
私が、この村に先生として派遣されたら、何も伝えることを持ち合わせていない自分自身と教育との無力さに、きっと愕然としたことでしょう。
映画の中で学んでいた算数の計算や、英語の単語を覚えることは、子どもたちの今の暮らしの中で、本質的な学びではないように見えます。それは、「その知識を、何に使うんだろう?」という気持ちになったからだと思います。教室の中、黒板の上だけで展開される知識は、活用されなければ、何の意味も持ちません。町の暮らしと、村の暮らしで必要な知識も違うはずで、全国画一的に施される同じ教育は、もしかしたらそれぞれの地域の文化や生活を壊すかもしれないなぁ、と、どきっとしました。
そうです、村の大人たちは〈教育〉を切望していました。町の青年は〈教育〉を届けに来ました。町の青年が届けたのは〈町の教育〉で、それは言ってみれば、画一的な知識です。でも、村の子どもたちが受ける教育は、彼らが幸せになり、彼らが未来に触れるための〈教育〉でなくてはいけない。〈町の教育〉と共通する部分はあってもいいけれど、根底にある想いが、村の文化や価値観に根差している必要があります。そうでなければ、〈教育〉は、昔ながらの暮らしと、未来を生きようとする子どもの断絶を生むことになってしまいます。(土地の歌を通して青年と心を通わせた若い女性は「私はずっとここにいる」と言いました。)
そう言えば、学びの在り方として、象徴的に描かれた姿は、土地の言葉の「あいうえお」を、節をつけて歌い、覚える場面でした。この学びは、最後の場面で「子どもが先生にお礼の手紙を書く」ことに生かされました。
こういう風に、学んだことを自分の生活の中で使い、それによって、それまでできなかったことが、できるようになることが、〈教育〉の目的の1つだと思うのです。
そう考えれば、この青年は、もっと学びの使い道を見せられたら良かったのかもしれません。
例えば、物語の本をいつも学校に置いておくとか。
自分の考えた詩を言葉にして書き残すとか。
町に帰る先生と文通ができるとか。
そして、学びの使い道は、生活を精神的に豊かにすることに向いているといいなぁと思います。
少なくとも映画で描かれた村の生活は、需要と供給のバランスが取れていて、よく働くことで、生活が維持できているように見えました。ならば、そっちのバランスは崩さずに、歌とか、物語とか、詩とか、あるいは、アートとか、身体を動かすとか、そういう精神的に豊かになる方向に、学びを生かせれば、それこそがもしかしたら、「未来に触れる」ことにつながるのではないかと、思うのです。
そう考えると、「先生は未来に触れられる人」というのは、画一的な知識を伝達することではなく、それぞれの生活に合わせた「未来」を、一緒に思い描くことのできる、ガイドのような人、ということなのかもしれません。なんて尊くて、そして、難易度の高い仕事なんでしょう!
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映画を観て、そして、教育って難しいなぁ、って考えて。
でも、それは他の国のフィクションではなく、私たちが今まさに向き合っている課題のように思います。子どもたちが未来に触れることに貢献する〈教育〉の在り方、って、どんな形だろうか。それは、国内の誰もが同じことを身に付けるだけではなくて、個々の特性や生活と地続きの学びなのかもしれない、とも思うのです。
先生は未来に触れられる人だとしたら、その先生の仕事は、子どもたちが未来に触れられることに貢献することだと思うのです。教育はどうやって未来に触れられるのか、なんだか大きな宿題をもらった気分です。