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子どもには子どもの領分がある

子どもには
子どもの領分がある。
彼らは、少しずつ大人の手を離し
自分の力で歩き出す。

だから、私たち大人は
意識して、子どもの手を離し
少しずつ、目を離し
でも、心は離さずに
子どもたちの育ちを見守りたい。
ずっと、そう思っている。

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子どもには
子どもの領分がある。

例えば、大人の目の届かない公園で過ごす時間。
大人がいたら「ダメ」って言ってしまう
ちょっと危ないこととか
あんまり良くないこととか
友達同士の乱暴な言葉の応酬とか
そういうことも、きっと起こっている時間。

そこで子どもたちは
失敗したり、しまった!と思ったり
すりむいたり、傷つけたり、傷ついたり
そういう事態を引き受けながら
かけがえのない何かを
経験している。
大人はそれを成長と呼ぶのかもしれない。

もちろん、
大きなケガとか事故とか事件が起きたら
成長なんて言っていられないので
大人たちは、
どれくらい手を離したらいいのか
どれくらい目を離したらいいのか
悩み、不安になりながら、判断して
彼らを送り出していく。

自分の子が、初めて
「友達と一緒に、自転車で、
学区外の公園に行きたいんだけれど、いい?」と
言ってきた時のことを思い出している。

どんな状態になれば、許可していいのか。
そんな一律の基準なんて、ない。
我が子の状況や、環境や、友達の状況、
色々鑑みて、考えて、判断するしかない。
そんな風に、我が子と向き合いながら
判断していく、その1つ1つが
親を、親にしてくれるんだと思う。

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子どもには
子どもの領分がある。

今、子どもたちだけで小学校に行っている
1年生や2年生の子どもたちが、
子どもだけで学校に行ったらだめだよ、と
急に言われたら、どう感じるだろう。
そのことを、大人たちはどんな風に説明するんだろう。

今、すでに、自分たちだけで学校に行く、という
小さな自立を達成している子どもたちに
「君たちは、まだ、1人で行動するには不十分だから
 大人や上級生と一緒じゃなくちゃいけません」って
言うんだろうか。(ひどいなぁ。)

子どもたちが抱いていた「自分でできる」という気持ちは
どうなるんだろうか。

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大人が、小さな子どもと
ずっとずっと一緒にいなくちゃいけない
というルールは
大人にとって無理なだけではなく
子どもの育ちにとっても
望ましくないと
私は思うんだけどなぁ。

* * *

(追記)
この記事は、「小学校3年生以下の子どもだけの、留守番・登下校・公園あそびなどは虐待になる」という内容の条例案が出たよ、というニュースと、それに対するSNSなどの反応を見ているうちに、言いたくなったことを書いたものです。

同じ文章をFacebookに投稿したところ、年子のお子さん2人が赤ちゃんの頃に海外に住んでいた友人が、「言いたいことは納得するけれど、海外で子育てをスタートをした自分としては、日本の子どもたちを見ていると心配になることもある。自立も大事だけれど、安全が確保されていることが大前提」と趣旨のコメントをしてくれました。
そのコメントに対する私の返信を、一部表現を変えて、付記します。

コメント頂いた通り、「とても難しい問題」なんですよね。
私が、投稿をしようと思った大きな理由は、このニュースを見た多くの人が「親の大変さ」からの反対意見を述べていて、それはそうなんだけれど、これが「子どもにとって本当に良いことなのか」という見解が少なかったので、声を出したくなったのです。「子どもにとっては必要だけれど現実問題として、親が大変で無理です」ではなくて、「子どもにとっても、良いこととは言えないんじゃないの?」という視点を示したかったの。

そして、書いてくれたように「自立」って、ただ放任すればいいのではなくて、安全とか、子ども自身の理解や判断力の度合いとか、そういうものを見極めなくちゃいけないよね。安易な答えを見つけず、その葛藤に日々向き合っていくことがきっと必要で、それは、ルールで決めるのとは違う難しさがある(そして、だからこそ価値がある)かもしれないなぁ、なんてことを考えていました。

私は、自分自身が海外で暮らす経験を経て、我が子とともに海外で過ごした訳だけれど。自分が子どもの時の印象は、「自分の勝手が分からない環境で、危険が一杯で、無茶はできない」というものでした。同世代の日本の学生に比べて、「子どもたちだけでできること」の選択肢が本当に少ないことも知っていた。

そして、ボストンで、1年生のわが子と片道20分の道を毎日歩いて登校し、2時半にお迎えに行ってから、そのまま校庭で遊ぶ我が子を5時までずっと待つ、という毎日を経て、帰国して、どれくらい手を離したらいいものか、バランスが難しいなぁ、って感じたよ。

そして、そのバランスって、国や文化によって違い、そういう意味では、子どもが、子どもたちだけの世界を持つことを保証できる、日本の環境はありがたいとも思ったし、誇りにも思った。だからこそ、日本の環境は、これからも続いてほしいと思うし、そのために、大人がすることは、過剰なルールを作ることではなくて、今の日本の環境の中で、綻びがあるとしたら、そこをどうカバーしていくのか、ってことだと、思うんだよね。

* * *


友人からのコメントを通して、改めて、子どもが育っていく姿を見守ることは、常に変化する子どもの〈今〉と向き合い続けることだなぁ、と考えています。今回の例で言えば「安全」と「自立」という相反するもののバランスを取ることが必要になるのですが、そのバランスの真ん中にいる子ども自身は、常に変わり続ける存在なんですよね。

もちろん、今回の問題は、親子の向かい方というよりも、地域全体で子どもたちを見守り、安全を保つための環境や意識が整っていないことに多くの人の意識が向いていたことは分かっています。

それでも、やっぱり思うのは、人が育つ過程において、「○○をしたから、もう大丈夫」って、言えることって、本当にないなぁ、ということ。ルールを決めたから、この施設を作ったから、人を●人配置したから・・・だから、もう大丈夫、ってことではなくて、その状況の中で、子どもの様子を、意識して観察していくことが必要。何より、そんな風に、あれこれ迷い、やってみる、その過程が、子どもと大人を成長させてくれるんだなぁ、と強く強く思うのでした。

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