無限に理解することはできないわけで
自分が障害の当事者になって
「◯◯という障害について理解を促す活動が大切だ」
という話をよく聞くようになった。
そういうのも確かに大切なのかもしれない。
ただ、人間としての素朴な感想は。
「いや、そんなに理解に時間もエネルギーもかけれんって」
と思うのです。
正直、僕は自分の視覚障害のことを
「理解してくれ!」なんて思ってません。
そもそも、僕が自分のこともろくに理解してないのにどうやって理解してもらえというのでしょうか。
もっと言うと、わかり合おうと思える気持ちがまず最初に必要なわけで。
「理解してくれ!」といくらいったところで、貴重な時間と思考的な体力を使う。
「理解する」という行為を、誰が好んでするんでしょうか。
「理解しましょう」とか「感謝しましょう」とか。
理屈じゃなくて、体感と体験の中にしか答えが無いようなものをいくら言葉で語りつくそうとも、限界があるのは自明の理だと思うのです。
だったらどうする?
自分がそう在り続ける。体現し続ける。
これじゃないでしょうか。
理解してほしいなら。まずは自分が理解される気持ちよさを相手に体験してもらう機会を作る。
気持ちよさのその先に、より行きやすい世界があることを体現し続ける。
「理解してください!」はされません。
僕たちにできるのは、人を世界を「理解しよう」と試みること。
そして、「理解しあえるのってめちゃむずいんだよなぁ」と認めること。
ここらへんじゃないですかね。
ただの思ったことのつぶやきでした。
理解しあえたらラッキーですね。それではまた。
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