とやまの見え方・松平定信と越中褌

2020年9月10日投稿

 私は着用したことありませんが、古くからの男性用下着に「越中褌(ふんどし)」があります。なぜそれを、我が富山の旧国名“越中”というのか、諸説があるようですね。
 
 たとえば、越中守細川忠興(1563-1646)が考案し、その越中守にちなんだとか、あるいは、大阪の越中という名の遊女が考案したとか(この場合は、女性用の下着を男性も着用したということなのか?)、または、越中守松平定信(1759-1829)が、庶民に着用を奨励したのが謂れだとか、いろいろあるようです。

 これら諸説のうち越中守松平定信については、もっともらしい逸話を聞いたことがあって、それは、こうです。
 
 松平定信が実施した寛政の改革(1787〜1793)の折、それまでの老中田沼意次の政策で奢侈に流れていた治世を引き締めるため、質素、倹約を庶民にすすめた。その際、褌は、布を多く使う六尺褌ではなく、少なくてすむ型の褌を奨励したため、それを越中守にちなんで越中褌とよぶようになった、というものです。
 
 細川忠興にしろ松平定信にしろ、謂れが”越中守”にあるというのは、どこまで本当なんだろうか?


 ……で、さて、先日、いつもの書店で、新刊書のワゴンに積んであった『遊王 徳川家斉』を購入しました。第11代将軍徳川家斉(1773-1841)の伝記です。
 
 新書の帯に「在位50年 子どもは50人以上!」の惹句が書いてあったので、高校の日本史の授業を思い出しました。先生が、家斉を印象付けようと「家斉は、歴代徳川将軍の中で一番の子だくさん」と説明していたのです。
 
 家に帰って読み進むうちに、59人の子どもたちの消息が一覧表のページになっていました。夭逝した子が30人もいたのは驚きです。大奥では身分の差があり、泣く赤子に添い寝ができないとか、大切にするあまり、寒々とした広い部屋にひとりで寝かされていたとか、育児には不都合な環境だったらしい。


 その他の子29人は、そのうちのひとり家慶が将軍職を継いだのは当然として、他の男女は、有力大名家で跡取りになったり輿入れしたりと、血脈の広汎なネットワークを構築していました。
 
 さて、話を越中褌に戻すと、この家斉の治世下、越中守松平定信が寛政の改革で世に出たときのことを、この『遊王 徳川家斉』で、著者の岡崎さんが、当時の戯れ歌を引いて、次のように書いています。


〈時に家斉は15歳、定信は30歳。「寛政の改革」の始まりである。
  ふんどしが出たで
  世の中しまる也
 ふんどしは越中。つまり越中守定信。期待された改革だが、実は田沼の失脚から電光石火とはいっておらず、定信が老中首座になるまでに1年もかかっている。
─中略─
 しかし既得権の侵害や、もともと改革の趣旨が「享保の制に復す」というものだったので、時勢に合わないものもあり、次第に、
  世の中に 蚊ほどうるさき ものは無し 
  ぶんぶ(文武)といふて 夜も寝られず
  白河の 清きに魚の 住みかねて
  元の濁りの 田沼恋しき
 という有名な落首に象徴される揺り戻しの声が出て来る。
─中略─
 当時、江戸ではふんどしもヒモが細く、何となく頼りない「越中」ではなく、倍以上も長い「六尺」をきりりと締める向きが多く、「越中」では時勢もしまらなかったのか。〉


 結局のところ、ここの記述だけでは越中褌を定信が奨励したか否かはわからないけれど、戯れ歌にあるように、江戸の庶民の間では、「越中」が「ふんどし」を連想させていたことは、間違いないようですね。
 
 著者の岡崎さんは、越中褌を引き合いに、いささか残念な総括をなさっていますが、褌になぞらえられた松平定信の心中やいかに?

(引用参考文献) 『遊王 徳川家斉』岡崎守恭著 文春新書 2020年5月刊

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