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アラフィフ野郎の、人生の節目の歌~社会人編

昨日、現在に至るまでの人生の節目、忘れられない出来事とリンクした曲をご紹介して、ミエハルはこんな傾向のJ-POPを聴くのか、へー(・◇・〃)

と思って頂こうと記事を書き始めたら、学生時代だけで4000字を超えてしまったので(苦笑)、学生時代と社会人以降に分けて、曲のご紹介をしようと思います🎤

(参考までに昨日の記事です ↑ )


「TOKYO/矢沢永吉」

・平成5年4月から富山にて社会人となった際、金曜の夜8時に入っていた刑事番組のテーマ。親戚以外知り合いがいない地での社会人生活出発の寂しい思い出。

親戚以外知り合いがいないって言っても、例えば就職を機に都会へ出てきて、それこそ誰も知り合いがいないって方も多い中、逆に親戚が身近にいた環境は、ありがたいことなのかも…と、最近思うようになりました(^▽^;)

でも23歳当時は、金曜の夜に飲みに行こうや~みたいな友達もいないし、土日も就職したての頃は免許証もなくマイカーもなかったので、たまに自転車で近くの本屋に出かける程度。

孤独でしたね~(苦笑)

そんな孤独だった頃を思い出す1曲です(;^ω^)


「ロード/THE虎舞竜」

・親の今後について考えるキッカケになった思い出。

私が富山で就職して4か月経った8月、父親が倒れ、緊急入院し、大腸の手術を受けました。

その時私は呑気に広島へ里帰りと称して遊びに行ってたんですが、泊めて頂いていた後輩の自宅に、父が倒れて大腸の手術をしたから早く帰ってこいと不在中に電話が入り、私は予定を2日早めて富山へ慌てて帰ったんです。

詳しい内容は分からなかったので、父が亡くなったらどうしようとか、帰りの列車ではもう心中穏やかではありません。

富山へ戻り、すぐ父の病院へ駆け付けると、手術直後で体は動かせないものの、意識はハッキリしており、命の危機は脱したのが分かり、安堵して思わず号泣してしまいました。

この広島からの緊急帰宅の時、頭の中を流れていたのが「ロード」でした。
とにかく生きていてくれ、こればかり念じながら新幹線と雷鳥を乗り継ぎ、富山まで帰ったのを覚えています。

なので「ロード」を聴くと、父に生きていてくれと念じながら富山へ戻った平成5年の8月(冷夏でしたね~)を思い出します。

この時、父は無事生還して再び仕事に復活したのですが、私の中では、親にいざ何かが起きた時の心構え、やるべきこと等々を考え始めるキッカケとなりました。


「碧いうさぎ/酒井法子」

・初の出張命令が下り、出張先が名古屋だったため、名古屋に住んでいた元カノさんと再会してあわよくば復縁かも?という楽しかった思い出。

実は ↑ に書いた思い出は、既に記事にしております(^▽^;)

この記事の後半で、出張や元カノさんとの再会について、濃く書いております(*ノωノ)
なのでお時間があればリンク先に飛んで頂ければ…と思いますが、手短に書くと、上記のとおりでありますm(_ _)m

もし元カノさんと復縁できていたら、当然その後の人生も違ってくるわけですから、どんな人生になっていたか、ドラえもんにもしもボックスを借りて、調べてみたいところです(;^ω^)


「涙の影/シャ乱Q」

・やっと失恋記録更新をストップさせ、妻と付き合い始めたばかりの頃のある出来事の思い出。

私は大変恥ずかしい告白を、今から皆様にいたします(/ω\)

恥ずかしい話が嫌という方は、画面を数行スクロールさせて飛ばして下さいねm(_ _;)m


平成8年8月3日、私と妻はドライブデートをしていました。
そして1日も終わり、そろそろ妻ともお別れというタイミングで、ある公園の駐車場に車を停めました。

その車中で、カーステレオからこの曲が流れる中、私は妻とファーストキスを交わしたのです(*ノωノ)ハズカシー

恥ずかしい話、私には生涯で初めてのキス。

いわゆる恋のABC(古っ)を一つも体験していないのも、この頃の焦りに繋がっていたのだと思います。

でも緊張して、最初は互いの歯がぶつかったという苦い思い出もあります(苦笑)


以上、恥ずかしい話でした!(*ノωノ)


「明日もあなたに恋するでしょう/西脇唯」

・結婚した時の初々しい気持ちを取り返せる貴重な歌。

妻とは1年4か月の交際期間を経て、平成9年11月22日に結婚しました。
3連休の初日で、広島の友達も十分に間に合うよう、披露宴は午後開始と設定して、式場の方とも打ち合わせをして、この日を予約しました。
挙式日と届出日が違うということは避けたかったので、婚姻届もこの日の朝に市役所の受付に提出しました。

準備を進めていく中で、式場の担当者さんから、

「ご主人、この日は『いい夫婦の日』ですよ。良い日を選ばれましたね」

と言われたのですが、最初はピンと来ず、へーそうなんだー程度にしか考えていませんでした。

それが私たち夫婦が結婚して数年後くらいから、11.22はいい夫婦の日!みたいなキャンペーンも始まり、偶々3連休の初日という理由だけで選んだ私は、若干気恥ずかしかった思いがあります(^_^;)

勿論、現在は女帝と化している我が妻ですから、新婚旅行中から衝突をしていましたし、一緒に暮らし始めてからもケンカばかりでした(笑)

あまりに理不尽な理由でケンカを吹っ掛けられた時は私もキレますが、そんな時に気持ちを穏やかに戻してくれるのが、西脇唯さんの「明日もあなたに恋するでしょう」です。

西脇唯さん自体知らない、という方が多いかと思いますが、一時期は「名探偵コナン」のテーマ曲も担当しておられ、幅広い歌手に楽曲を提供したりして、精力的に活動しておられました。

その後病気になられ、第一線からは退かれたんですが、この曲はよくテレビがやってる「次の時代に残したい名曲」の一つです♪


「タイミング/BLACK BISCUITS」

・就職後、初めて人事異動で全く勝手の分からない他の課へ異動になった思い出。

サラリーマンなので春には定期人事異動があります。
私は新卒で配属された課の仕事が、大学で学んだことを即生かせる内容だったのと、人間関係も最高で、別に定年までこの課でもいいや!と思えるほどでした。

しかし新卒で5年も同じ課にいると、人事課からもう異動したくないと希望調書に書いても、異動対象になります。

その次に移った課が激務で、私は体調を壊してしまい…という展開になっていくのですが、異動したばかりの頃はまだノンビリしていました(激務になったのは、2年目からでした)。

この「タイミング」を聴くと、初の異動で不安だった心境、でも若い人が多くて馴染みやすかったことなどを思い出します。
この課で苦楽を共にした元同僚さん達が、富山に来てから出来た人脈の中で、今でも年賀状のやり取りが一番多い皆さんです。


「ミュージック・アワー/ポルノグラフィティ」

・大腸の手術で5月から7月まで2か月入院した後、自宅療養中に何度も聴いて元気をもらった思い出。

結局上記の、初の異動で所属した課が、2年目になると残業当たり前、定時で帰れるなんて思うなよ状態へと突入していきます・・・もう正直に書いちゃいましょう、2000年とやま国体を仕切っていた課です。

2年目というのは本国体の1年前ということで、いろんなスポーツ行事を無理やり国体に絡めてPRしたり、本番に備えて運営方法を学んだりするんです。

時にはこんな着ぐるみにも入ってましたよ!(笑)

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私はその課で、輸送と警備を担当していたんですが、何とまあ一つの大会でこんなに労力を要するのか…と絶句しながら、ほぼ毎日残業し、同時に翌年度予算要求もしなくてはならなくて、最初にいた課に戻りたいな、と思ったりしていました。

そんな中、年が明けていよいよ2000年になると、どうも私の体調がおかしくなってきました。

微熱が続いて治まらない、腹に今まで感じたことのない痛みを感じるという日々が続きまして、それでも風邪薬を飲んで出勤していたのですが、ありがたいことに(?)私の体調がおかしいのを考慮して下さったのか、本番の年でしたが2年の在籍で、新たな課に異動が決まりました。

すると新しい課に移ってまだ3日しか経ってないタイミングで、高熱と凄まじい腹痛に襲われ、緊急入院することとなりました。

最初は手術しかないと言われたんですが、まだ異動したばかりなので仕事も覚えなくちゃいけないし、何とか手術しないで済むよう、お医者さんに頼み込みました。

強引に退院して仕事に復帰したものの、我慢の限界はGWまでで、再び私は入院し、今度は手術前提となりました。

病名は「大腸憩室炎穿孔」
要は大腸に穴が開いたのです。

手術は、その穴が開いた部分の大腸を切り取り、残った大腸を繋ぎ合わせるというものでしたが、穴が開いていた場所がS字結腸という箇所だったため、手術自体も大変で、術後の回復も物凄く時間がかかりました。

唯一ラッキーだったのは、新しい課の私の上司が、ちょっと合わない人だったんです(;^ω^)
入院中はその上司に会わずに済みますので、その点だけは長い入院生活の嬉しい点でした。
あとずっと点滴だったので、11kgも痩せたんですよ♪

時は経ち退院に至ったのですが、入院した頃の爽やかな気候ではなく、猛暑でグッタリな気候┏(x_x;)┓

自宅療養期間としては長めの1か月と診断してもらえたのですが、とにかく体力も何もかも落ちていた私には毎日家で過ごす時間も大変でした。

そんな中、耳に飛び込んできた元気な曲が、「ミュージックアワー」です。

ポカリのCMにも使われていたので、早く元気になって、一色紗英ちゃんみたいに遊びたい!と思ってました(^^;)

この曲を聴くと、どん底だった体調が回復していく過程を思い出します♬


「星屑の町/ゴスペラーズ」

・初の我が子と出会った帰り道、ラジオから流れてきた曲。

2002年11月1日午前1時55分、待望の娘が我が家にやって来てくれました♫

女性の神秘を感じるのは、この日満月だったんですけど、前日の10月31日の夜に病院に妻を連れて行ったら産科病棟が目の回る忙しさで、なかなか対応してもらえなかったんです。
妊娠、出産は月の満ち欠けに影響されると聞いたことがありますが、本当にそうなんだ、と思いました。

結局妻は物置の奥みたいな仮部屋に作られた簡易ベッドを与えられ、そこで陣痛と戦っていました。

出産は大変だと思っていましたが、他の妊婦さんの絶叫も凄かったです(苦笑)

今でも忘れられないのは、
「今すぐこの子を出してーっ、アタシ死ぬ、死ぬから早く出してーっ!」
っていう、顔も名も知らない妊婦さんの絶叫です。命を懸けての出産ですよね(ちなみに妻は、何ヶ月検診とかの日に、この絶叫妊婦さんと再会したそうです。赤ちゃんの誕生日が同じということから判明したらしいです)。
赤ちゃんも元気で、ママさんも元気、死ななくてよかったと、妻と笑いあったそうです。

私が娘に初めて会ったのは、午前3時半頃。

棒のようにカチカチになった腕で娘を抱っこし、
「お父さんだよ。はじめまして」
と話しかけたら、ギャーッと泣きさけばれたのを覚えています(笑)

その後妻を労わってから、いったん帰宅したのですが、車はラジオを聴く設定になってまして、時間的に恐らく「走れ!歌謡曲」だと思いますが、ゴスペラーズの「星屑の街」が流れてきたんです。

なんていい曲を流してくれるんだろうと感激しながら、家に一旦戻りました。

なので「星屑の街」を聞くと、高3になり一人前の口を利く娘が、まだ3210グラムだった頃を思い出すのです。


さて娘が生まれますと、私はすっかりJ-POPを聴かなくなり、教育テレビやアニメばかり見るようになってしまいました。

そのせいで、2003年以降しばらくの間、J-POPの動きに疎くなり、SMAPの「世界に一つだけの花」くらいしか分からない、J-POP浦島になってしまいました(;'∀')

再びJ-POPを積極的に聴きだしたのは、2010年位からですね~。

勿論全然聴かない訳ではないので、耳に入ったヒット曲はレンタルしたりしてました(TOKIOの宙船とか、ポルノのジョバイロとか、嵐のlove so sweetとか)。

最近では、年に1曲、今のヒット曲を覚えるというのを自らに課しまして、去年は米津玄師のLEMON、一昨年は乃木坂46のインフルエンサー、一昨々年は星野源の恋をマスターしました。

今年は何にチャレンジしているかといいますと、LiSAの紅蓮華💦

マスター出来るんかいな…o(-_-;*)


またも長文になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました(^▽^)/

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ミエハル
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