【閑話休題】マイカルチャー・プロレス編その3
以前、チェーンナーさんが発案された企画記事として、2回ほどプロレスの記事を書かせて頂きました☟
既にチェーンナーさんの企画は終わっているのですが、ありがたいことにプロレス好きな皆様から是非続編を!というお声を頂戴していたもので、ちょっと間が空きましたが引き続き第3回として少年期からのプロレスの思い出等を書き綴ってみたいと思います😅📝
「猪木と国際軍団」
その1でも書いているのですが、小学5年生(1981年)になってからプロレス(主に新日)を見始めた私は、伝説の田コロ(1981.9.23)をリアルタイムで観たことを密かな自慢としております(笑)
その伝説の田コロの一つでご紹介した、国際軍団の乱入!
この乱入に激怒したアントニオ猪木が国際軍団と血みどろの軍団抗争を繰り広げる…
のですが、皆さまご存知の通り、本当は心優しいラッシャーさんは、初めて上がった新日のリング(対抗戦等は除く)で、
「こんばんは」
と言ってしまったのです。
場内が失笑に包まれる中、懸命にどれだけ頑張っているかを説明するラッシャーさんに対し、猪木さんはイライラ。
イライラはなんと同僚のアニマル浜口選手にも伝播し、ラッシャーさんの挨拶が終わると保坂アナからマイクを取り上げ、挑発的な文言を浴びせます。
そして最後にマイクを向けられた猪木さんは、手でマイクは要らないとアピールした後、ラッシャーさんに対してリング上で二言三言話し掛けているのですが、これはマイクが拾っていないので、何を話し掛けているかは分かりません。
私の推測では、「もっと『猪木、テメーを倒してやる』とか言って来いよ」というような苦言を呈していたのではないかと思うのですが…(;´∀`)
果たして先行き不安な状態で始まった新日本軍vs国際軍の全面対抗戦ですが、第1弾となる1981.10.8蔵前大会の事前ポスターの告知と比較すると、寂しいものとなってしまいました。
現役続行を望む選手をマイティ井上選手がまとめ、全日本へと移籍したんですね(阿修羅・原は別ルート。その他海外遠征した選手もいます)。
そのためこの写真ほど華々しい大会とはなりませんでした。
このポスターだけを見ていると、
・A猪木vsR木村
・坂口vsA浜口
・藤波vs寺西
・S小林vs阿修羅・原
・長州vs鶴見
・タイガーマスクvsマッハ隼人
・星野vsM井上
というのを否が応でも予想してしまいますね~Σ(゚∀゚ノ)ノキャー
となると外国人選手はどうするんだ?という疑問も出てきますが(^_^;)
これだけ豪華な大会にしたのには、翌日、全日本プロレスも同じ蔵前国技館でビッグマッチを行うことにしていたからという興行戦争の一面もありますが、当時小5の私にはそんな深いことは分からず、ただ単に猪木ガンバレ!とテレビの前で応援していました。
結局実施された親日軍vs国際軍の試合は3試合でした。
① ○藤波辰巳vs寺西勇●
② ●剛竜馬vsA浜口
③ ●A猪木vsR木村
なんと、新日軍が1勝2敗となってしまったんです(@_@)
(なんで剛なんか入れたのかと、当時小5の私は思ってましたが…苦笑)
あくまで当時小5の私の感想ですが、猪木vs木村は、内容は圧倒的に猪木優勢でした。
ただ最後、腕ひしぎ十字固めを決めたものの、木村がロープに足を延ばし、ロープブレイクしなきゃいけないのに、猪木がしなかったので、猪木の反則負けとなった訳です。
結果は負けでも圧倒的勝者のような貫禄を漂わせる試合後の猪木と、勝ったのに痛々しい姿の木村、このコントラストを妙に覚えていますね~。
この結果を不服とした国際軍団が、今度は完勝してやると猪木に再戦を申し込み、意外に早く1か月後の1981.11.5蔵前大会で、A猪木vsR木村の再戦が行われました。
この時も試合展開は1回目と似ていましたが、最後は猪木の腕ひしぎ十字固めが、今度はリング中央のロープに逃げられない位置で完璧に決まりました。
ですが意地でもギブアップしない木村に対し、セコンドに付いていた浜口、寺西が白タオルをリングに投入し、TKOで猪木の勝利となりました。
実はこの試合後、猪木と木村は握手を交わしているんです。
後年を考えるとえっ?な場面ですね(^_^;)
ですので私は、これで決着も付いたし、国際軍も新日軍に入って活躍するのかな?と思ったものです。
駄菓子菓子!
今となれば誰の発案か分かりませんが、国際軍団の3名は、徹底した悪役を演じていくことになります。
翌年、昭和57年はワールドプロレスリングの生中継は、毎週のように「A猪木&藤波vsR木村&A浜口」ばかりになりました。たまに藤波が木村健吾に変わったり、たまに寺西も加わっての6人タッグになったりしましたが、基本は「A猪木&藤波vsR木村&A浜口」。そこにタイガーマスクの試合と、前座っぽい試合も加わって、1時間3試合の生中継が確立されていきました。
ただ昭和57年前半は、猪木さんが体調不良でシリーズを欠場することが多く、この時にH・ホーガンが助っ人として日本陣営に入ったりしていました。
そのため猪木vs国際軍団という図式も一時色褪せかけたのですが、一発で存在感が薄くなっていた国際軍団を悪役トップに蘇らせたのが、昭和57年9月21日の大阪府立体育会館、敗者髪切りマッチ「A猪木vsR木村」です。
(動画は探したのですが、ありませんでした…)
試合は猪木が勝ったのですが、なんと木村は髪切りを拒否して逃亡!
それ以前に場外乱闘の時、国際軍のセコンドがハサミで猪木の髪の毛を切るという暴挙!
この試合後、よく暴動が起きなかったなと思いますが、試合後の猪木のマイクアピールに、まだ神通力があったのではないかと思います。
私が覚えているのは
「腐ったマネしやがってこの野郎、テメエラ全員、永久追放だ!」
です(違っていたらスイマセン)。
これが後の、猪木vs国際軍団の1vs3ハンディキャップマッチへと繋がっていくので、当然国際軍団は永久追放にはなりません(^▽^;)
猪木vs国際軍団の1vs3ハンディキャップマッチの1回目が行われたのは、昭和57年11月4日蔵前大会です。
このちょっと前に、長州が藤波に、小林がタイガーに宣戦布告していて、この日はその2大シングルも行われることから、観客動員数もテレビ視聴率も凄かったんじゃないかと思いますよ!
ただ腹立たしいことに、この試合の中継は2週に渡ってしまうことになったんです。
放送日は11月5日と11月12日。
なんと11月12日は、小学校の修学旅行と重なってしまいました😢
当時小6の男子は、ほぼほぼプロレスファンです。
今みたいにタイマー録画環境が整っている家庭など、富裕層の一部だけです。
修学旅行で生徒が寝る部屋には、もちろんテレビはありません。
猪木vs国際軍団の結果を知りたい~
先生方の部屋にはテレビがありますから、ワールドプロレスリングも見られるんです。
私や他の男子は懇願するように、プロレスだけでいいから先生の部屋で見せてくださいとお願いしたのですが、当然却下。
翌日、不満げな男子に向かって某先生は
「猪木が負けたぞ」
と、傷口に塩を塗り込むような一言を浴びせてきました(苦笑)
今思えば、この蔵前の1vs3が、猪木vs国際軍団のピークだったような気がしますね。
翌年2月に、今度は舞台を大阪に変えて1vs3の変則マッチの再戦が行われましたが、結果的に猪木の負けでしたし(浜口をオーバー・ザ・リングサイドにしてしまうという、曖昧決着の極みたる反則負け)。
以後は国際軍より、長州の革命軍との抗争がメインに移っていき、またIWGP構想も本格化し、更にA浜口も長州と合体するなど、国際軍は弱体化する一方でした。
国際軍の末路としては、昭和58年9月、大阪で猪木が木村を血だるま秒殺したのが、最後となりました。
その後、最後まで木村と行動を共にした寺西も長州率いる革命軍に移籍し、木村は海外遠征に出ると発表されました(私は海外遠征ではなく、悪化していた腰痛の治療に専念していたのではないかと思いますが)。
年が明けて昭和59年、なんとラッシャー木村は復活します。
1人国際軍を名乗り、外国人レスラーと共闘していくのですが、仲間割ればかり繰り返す始末。
正月シリーズのラストの方では、外国人レスラーにやられっ放しの猪木を救出するなど、ひょっとしたら新展開が?という流れもあったのですが、その正月シリーズに復帰しただけで、次のシリーズは冒頭から前田とともに謎の欠場をし、4月のUWFへの参加に繋がっていきます。
ラッシャー木村が全日に来る前を語ってしまったような感じで、もう一つのネタとしてカブキ登場!とかもあったんですが、それはまた次回(いつになるやら)書かせて頂きます(^▽^)/