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生い立ちについて

生まれてから、18歳で家を出るまでの流れを詳しく描いていこうと思う。
読むとメンタルをガンガン削るようなハードな内容。
ADHDの衝動性、双極性障害の軽躁状態もあってか、性的なエピソードがいくつかあり、性とは切っては切り離せないので、ここも詳しく書いていく。
体調の良い時に読むことをおすすめしたい。

内容によっては特定されるかもしれないので、フィクションも混ぜようと思う。悪しからず。

共感や肯定をしてほしいわけでもなく、同情してほしいわけでもない。
ただこういうことがあったんだという、事実を発信していくことが目的。


両親のこと

1995年11月某日、大阪のとある町で生まれた。
体には3種類の血が流れている。いわゆるクォーター。
母親(韓国×韓国)×父親(中国×日本)で、私の顔つきはアジアンテイスト、日本人の顔っぽくないとたまに言われる。
日本生まれ日本育ち、喋れる言語は日本語と韓国語だけ。

そんな両親は1993年ごろに出会っていたらしい。
大阪のとある飲み屋で、ホステスが接待するような店。
客として父親が店に訪れ、ホステスとして母親が働いていたのが出会いと聞いた。
馴れ初めはあまり詳しく聞いてないが、紆余曲折あり、同棲が始まった。
そして同棲しているうちにやることはやっておいて、出来たのが私というわけ。
それをきっかけに結婚し、3人で暮らす生活が始まった。

生まれた当時は一軒家に住んでいた。3階建て。
1階は改築してあった。父親が趣味で骨董店を営んでいた。
骨董品といえば聞こえはいいが、今思えばジャンク品もあったと思う。儲かってはいなかった。
それを見かねた母親がカタコトの日本語でよく言っていた。
「そんなしょーもないもの売ってないでちゃんと働きなさいよ」
それで父親は激怒し、幾度となく言い争いしているのを見ていた記憶がある。とても悲しかった。

3歳の私

物心ついた3歳ぐらい。環境が一変した。
車を運転している父親はとても落ち着いていた。私は助手席に乗り、お出かけに気分はるんるんだった。
でもパトカーが追いかけてきて、父親を捕まえどこかへ行ってしまった。
警察署で保護された私は、女性警察官に慰められていた。パパは悪いことしてないのに、どこに連れていかれたの?
数時間が経ち、父方のおばあちゃんが迎えに来てくれた。でもそれから数日、父親は帰ってこなかった。

父親がいない間のことをまったく覚えていない。
しばらく日が経って、父親が帰ってきた。
帰ってきたら今度は、母親が私を置いてどこかへ行ってしまった。なんで?
「パパと仲良くするんやで」と言って玄関の扉を閉めた。子供だから泣き喚いた。
で、数日してまた戻ってきて、父親と喧嘩していた。
1階で父親は母親を殴っていた。今まで殴っていたところなんて見たことがなかったから、一気に父親が悪者に見えた。
今になってわかるけど、もうその時すでに父親は普通じゃなかった。
あとになって分かったけど、父親は覚せい剤に手を出していた。もう、普通じゃなかった。

父親は逮捕された。大阪刑務所に勾留された。
母親に手を引かれ面会に行った。衰弱した父親がいた。なぜか父親が泣いていた。意味がよく分からなかった。
面会が終わってから、母親は「大きくなったらちゃんと教えてあげるから」と言った。
相変わらず意味がよくわからなかったが、もう3人で暮らせないことだけはよく分かった。
そして両親は離婚した。

母親との暮らし

母親はまたホステスに戻った。大阪のミナミのホステスだ。
私は母親と毎日タクシーで通勤し、繁華街の中にある夜間託児所で過ごした。
今はもうない、いちごハウスという名前の夜間託児所だった。そこに通う生活が2年ほど続いた。
眠れなくて薄眼を開けると、先生たちが騒いでいる。寝床にあったテレビをつけていた。
そのテレビには2棟のビルに飛行機が突っ込み、壊れていく映像が映し出されていた。2001年、私が6歳になろうとしている年の出来事だった。

寂しかったせいか、私は性的なことへの目覚めが早かった。自慰と自覚しておらず無意識に触っていた。母親はそれを見つけ、ひどくひどく叱った。
いつも「おしりを触るのをやめなさい」と言われ、靴べらで太ももを叩かれた。
そのせいで、悪いことなんだと自覚は持つものの、やめることができなかった。
そこから母親の「しつけ」は歪み出したのだと思う。

小学生時代

託児所も卒業して、一人で家で留守番できるようになった小学生低学年のころ。
母親が帰ってくるまで寂しくて、夜中の2時まで起きていた。玄関の鍵が開く音がする。即座に寝る振りをした。
でも母親は鋭い、子供の寝る振りなんてすぐに見抜いてしまう。
泥酔している母親は、
「なんでこんな時間まで起きているんや」と叱り、テレビを台から引きずりおろしてなぎ倒したり、机の引き出しを壁に投げて部屋をめちゃくちゃに荒らした。力強すぎやろw

そんな風に叱られる日もあれば、酔っ払って帰ってきて、目の前で嘔吐して、その酒臭い吐瀉物の処理を私がする、なんて日もあった。
はたまた、寝ている私を叩き起こして「かまってちゃんモード」になるときもあって、本当に訳がわからなかった。
毎日様子が変わる母親に恐ろしさを感じて、「次はいつ怒られるだろうか」「次はどんな難癖をつけて叩き起こされるだろうか」と怯える毎日だった。
母親の顔色を伺って生きる毎日が、本当に苦痛で仕方なかった。

学校では、いじめもなく、楽しい毎日だった。
勉強もよく出来ていた。ピアノや習字も習い事として通わせてもらっていた。
小学生時代の学校のエピソードは、特筆することがほとんどないので省略する。

その頃、初めて携帯を持たせてもらった。
学校から帰ってきたら母親は仕事に出かけるから、連絡手段のために持たせてもらっていた。
相変わらず夜は一人で、ずっと寂しかった。
携帯なんかじゃ寂しさを埋めることができなかった。
その頃も自慰は続いていて、郵便ポストに投函されるようなピンクチラシをかき集めてはオカズにしていた。なんという変態小学生ww、と今になって思う。

持たされた携帯で、えっちな画像を見る、ということを覚えた。
きれいな女性の体に興奮してとても満たされた気がした。
しかし、当時はパケットは定額ではなく、使った分だけ支払いが生じるので、パケット代が7,8万というどエライ金額になった。
請求が来てバレて、こっぴどく叱られ、汚いと罵られ、靴べらで全身殴られた。
頭をグーで小突かれ、腕や太ももが青くなるまで何度も同じ所を殴られた。
しまいにはそんなボロボロの体で、冬の寒い部屋に放置されて、「両手を上にあげてそのままじっとしてなさい」と言われた。
体が痛くて、軋んで、眠くて空腹で、もう死んでもいいと思った。
自分はなんてひどいことをしたんだ、心の底から反省した。

学校には居場所があったけど、家には帰りたくなかった。
でも他に行くところもないし、帰っても母親はいないから家に帰るしかなかった。
母親と過ごす時間は自分を殺す時間だった。

中学時代

中学校はしんどい学校だった。
クラスメイトには少年院送りになったようなヤンチャもいて、いじめが横行し陰湿な雰囲気だった。
私は当時、母親からこっぴどく「勉強しなさい」と言われていた。
勉強用と称してノートパソコンを買い与えられた。
今回買い与えられたものは、今度こそ私の寂しさを埋めてくれた。
ノートパソコンは、オンラインゲームにハマってしまう大きな罠だった。

学校から帰ってきたら、すぐにパソコンをつけてゲームにログイン。
母親が帰ってくる朝の4時ギリギリまで、オンラインゲームで、ずーっと遊んでいた。
そこで成人の男性と出会った。
ゲーム内では強い装備をくれたり、キャラクターの強化のためのアドバイスをもらったり。いろんな話を聞かせてくれた。
いつしか、要望が要求に変わり、それはだんだんエスカレートしていき、「性器を見せて」と言われた。
携帯を持たせてもらっていた当時、その人に尽くしたい愛されたい、認めてもらいたいと思って、言われた通りにしてメールで送信した。
今となっては分かる、完全なるグルーミング。

次の日はいつも通り学校に通った。
すると昼間、担任に呼び出され「お母さんから連絡があって、おばあちゃんが危篤だから帰ってくるように」と言われた。
帰ると鬼の形相をした母親がいた。
これは何?と私の携帯を取り出し画面を見せた。
そこには私の性器。え?なんで?
母親は私のいない間に、私の携帯の画像フォルダを漁っていた。
前の日の夜に撮って送った写真が携帯に残っていた。
事情を説明すると、「お前が悪い」の一点張りでカンカンに怒り、いつものように靴べらで半殺しにされた。
いよいよ母親も手がつけられなくなってきたのか、翌日学校に連れていかれた。目の前には担任。3者面談の始まりだ。

母親は「かくかくしかじか、こんなことがあって娘を叱りましたがこれではダメです、先生からも何か言ってやってくれませんか?」
事情を聴いた担任にもひどく叱られ罵られた。
母親が口を開いた。
「先生、この子を殴ってください。私はもうこれ以上”しつけ”ができません。」
「はい、分かりました。」

女の担任は、ソファに腰掛ける私の前に立ち、ソファに軽く膝をもたれさせ、私を馬乗りにして動けないようにした。
そこから始まる往復ビンタの嵐。痛い、痛すぎる。え、まず何この状況、何で担任に殴られてるの?
10分は殴られていたかもしれない。永遠に感じられてよく覚えていない。
担任は何かをずっと叫びながら殴っていた。
殴られたあとは、顔がパンパンに腫れ上がって喋ることができなかった。
母親は気が済んだのか、満足そうにしていた。
帰り道に、「もうこんなことになりたくなかったらママの言うことをちゃんと聞きなさい」と。
「わかりました」としか言えなかった。

中学時代はそんな学生生活だったので、勉強はボロボロ。
その時私に残されていたのは、唯一3年間続けていた、音楽部での部活動だけだった。
貸し出し用のギターやベース、バンドで使う楽器は一通り学校に揃えられていて、流行りのJ-POPをカバーしながら練習していた。
同じ部活に居た友達数人も、みんな似たような生きづらさを抱えていて、お互いを支え合いながら過ごした。
放課後は一緒に帰りながらいろんな話をしたりして、かけがえのない友達になった。
今でも年に2,3回は会う、大切な友達。

中3で進路を決めるときに悩んだ。
進路指導の先生が部活の顧問だったので話は早い。
「高校は部活で音楽を頑張りたいので、軽音楽の強豪校を教えてください」と言って教えてもらったのが、大阪にある学校だった。
迷いなくその学校に進み、高校生になった。

高校時代

高校生になってからは充実した毎日だったが、当時は「ブラック部活」なんて言葉がなかった時代、当時の軽音楽部の部活動は大変だった。
朝7時半に登校して校内清掃、週7で部活動、平日は放課後の夜7時まで練習、終わってからも公園で自主練習、土日は校外に出てイベント出演しバンド演奏する。
高3になってからは副部長を任せてもらえるようになった。
充実していたし、楽しかったけど、自分で選んだ道とはいえ、かなり過酷な環境で顧問との折り合いも悪く、ストレスフルな環境だった。

高校時代のエピソードはたくさんあるが、書くと身バレしてしまう可能性もあるため書けない。
当時は新聞記事に乗るほど部活動を頑張っていた、と書けば、ハードさを理解してもらえるのかな?

部活に明け暮れているので、自然と母親との距離も離れて行った。
家に居なくていいし、熱中できることがあるのは、私にとってとても都合がよかった。
母親にとっても、部活を頑張っている娘を応援して支えてる自分、良い母親でしょ?と言わんばかりに、周りのママ友に私の活躍を自慢していた。
私と母親の間で、諍いや喧嘩はほとんどなくなっていった。楽だった。

高2の冬。卒業後の進路に悩んでいた。
パソコンが好きだし、せっかくだからカッコいい仕事に就きたいと思って、webデザインや広告デザインを学べる専門学校に行くことにした。
母親からは大学を出てほしいとしつこく言われていたが、やりたいことは決まっていたので従わなかった。

この頃から、母親と喧嘩して殴られるようなことがあっても、振りかざされる腕を手で受け止め跳ね除けたり、体を抑え込んだりすることができるようになってきた。
いわゆる一般的な反抗期だったと今になって分かるけど、心も体も1人の人間として成長していた。
もう、母親の人形にはなりたくない、自分の人生は自分で生きたいと思うようになっていた。
母親も年のせいか、私を言いなりにできないことに諦めもあったのかもしれない。

専門学生時代

生い立ちは複雑だが、性格は真面目で、非行に逃げるようなことはしなかった。
性格は曲がらずに育ったが、高校時代からうつ傾向はあり、メンタルの糸はいつ切れてもおかしくない状態だった。

専門学生時代では人生で初めての挫折を覚えた。
自分の満足の行くレベルの作品が出来ず落ち込み、自分より上の実力者を見上げては自己嫌悪した。
デザインの知識と力は時間と共に付いてきたのに、デザインの世界は青天井で、その世界を知れば知るほど自分が何もできなくなってしまう感覚がした。

日頃のストレスから、ネットで出会った人とリアルに会って性的な関係を持つことがあったし、散財することがあった。
締め切りの迫った課題を2徹して完成させることもあった。
今思えば、双極性障害の軽躁状態だったと思う。

その頃に、今の夫になる彼氏と出会い、結婚を前提としてお付き合いをしていた。
母親に何て言おう… でも、私がどんな人と付き合おうが関係ないと思った。
ありのままを伝えた。年齢差が大きいこと、結婚を前提に付き合っていること、他にもいろいろ。ここでは省くが全部伝えた。
母親は認めることが複雑なような顔をしていた。
母親と父親の歳の差と、私と彼氏の歳の差は同じで何も変わりないのに、「歳の差が気になる、あかん」と言ってきた。何の指摘にもなっていない。

終いには、「この家を出て彼氏の家に行けばいいやろ!」と言って、私を追い出した。
それなら都合がいい!彼氏もむしろ、家に転がり込むことを受け入れてくれたし、この家を出られるならそれでいい!と思ってそそくさと荷物をまとめる私を、本当は引き止めたいようだった。
見ないふりをして家を出た。

家を出て丸1年。私はまだ3年制の専門学生、3年目だった。
母親から連絡があり、「今転がり込んでいる状況にけじめをつけろ、早く結婚しろ」と言われたので、急かされるように入籍した。
きっかけこそ良くなかったが、結果的に早く結婚していてよかったと思う。

元々はうちの家と彼氏の家で、結婚式費用は折半しようという話になっていたが、直前になって母親は手のひらを返し、「結婚費用を出せないから多めに出せ、出せないなら結婚式は挙げさせない」と言い、母親は法外な結婚費用を夫に背負わせ、私たちの生活が困窮していくのは、また別のお話。
後日別に書こうか迷い中。時間がないかもしれない。

それから月日は経ち、就職活動の時期に差し掛かってきた。
就活は真剣に取り組むことができなかった。
出来るフリをしている自分を社会に見透かされる怖さ、面接対策で己を省みてあれやこれやと策を講じることの億劫さ。
見かねた担任にいくつかの会社の斡旋をしていただいた。

そこで決めた会社が、私の人生を大きく変える出来事になった。
次の記事は社会人編で、うつを発症したきっかけと、双極性障害について書きたいと思う。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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