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【たべもの九十九・も】もんじ焼き〜駄菓子屋の風景

(料理研究家でエッセイストの高山なおみさんのご本『たべもの九十九』に倣って、食べ物の思い出をあいうえお順に綴っています) 

母から卵をひとつもらってお店に向かう。
途中で車道と歩道を分けるコンクリートの分離帯の
上を歩く。バランスを崩して慌てた私は卵を道に落として割ってしまう。今日は卵なしでもんじ焼きを食べなければならない。残念で仕方がない。卵があるとないとでは味が全然違うのだ。

これは小学校一年生の記憶。割れた卵から土の上に広がっていく黄身の色を覚えている。もんじ焼きというのは小麦粉を水で溶いた液体にソースや醤油で味をつけて鉄板の上で焼いて食べる子供のおやつだ。東京の月島で有名な「もんじゃ焼き」とは似て非なるもの。もんじゃ焼きは具沢山で大人の食べ物である。もんじ焼きにはその具がない。当時は一杯50円だったと思う。卵が入ると80円。それで卵を持参するのだが、小学一年生の小さな手で卵を持ち、遊びながら歩くのだから落として割らない方が不思議だ。何度か割った後、母は卵をくれなくなった。

もんじ焼きはどこで食べることができたかというと、主に駄菓子屋であった。寒くなってくると店先に中央が鉄板になった木のテーブルが設らえられた。もんじ焼きの台である。その四辺に木のベンチが置かれ、そこに子供たちがひしめき合った。

昭和40年代〜50年代にかけて小学生時代を過ごした子供にとって、町の駄菓子屋は学校とは別の大切な社交場であった。100円あったらいろんなものが買えた。串に刺したカステラだったり、すももだったり、糸を引いて選ぶフルーツ飴やあんず飴、ソースせんべいなどをよく買った。

私が小学校高学年当時のもんじ焼きは一杯100円になっていた。汁椀に小麦粉を薄く溶いたものがおたま一杯分入れられ、申し訳程度に青のりが浮き、生卵が一つ落とされていた。味付けは自分で醤油かウスターソースを入れた。お小遣いに余裕があるときはベビースターラーメンを買って加える贅沢をした。そしてもんじ焼き用の小さなヘラを持ってベンチの空いているスペースに体を滑り込ませる。

鉄板の上では先客がもんじ焼きの液体を広げている。自分の前の空いているスペースを「陣地」と定め、始めはティースプーン1〜2杯の小さな量から焼いていく。水分が飛び、液体は徐々に半液体となり、粘性を持ち始める。全体に色が変わったら食べどきだ。鉄板に接した部分は少し焦げつき始めている。この焦げを取らずに残しながら、ヘラでもったりとしたもんじ焼きを掬い取って食べる。急いで口に入れてはいけない。舌を火傷してしまうから。息を吹きかけ少し冷まして食べる。今日も絶妙の味加減にできた。

卵は壊さず後に残しておく。できた焦げの上に新たなもんじ焼きの液体を乗せる。繰り返すと焦げは薄焼きせんべいのようになってくる。これをヘラで剥ぎ取って食べるのがまた香ばしくて美味しいのだ。このもんじ焼きのお焦げは「おせんべい」と呼ばれていた。三分の一くらいをそんなふうに楽しんだら卵の出番だ。

そっと黄身を割って白身と黄身を少しだけ掬って鉄板に落とす。卵だけの時もあれば、そこにもんじの液を足すこともある。これは「目玉焼き」と呼び、卵の味を楽しんだ。残った卵はもんじ焼きの液に混ぜる。

先に食べ終わった子のスペースが空くと、陣地を広げる。もんじ焼き仲間と言える見知った子同士の時は、最後はお互いの椀に残った液体をすべて鉄板に乗せて一つの大きなもんじ焼き、通称「世界地図」を作り、それぞれが端から一緒に食べる。これは楽しかった。初めて会った子も世界地図を一緒に食べたらもう友達だった。

ネットから拝借。わりと昔のもんじ焼きに近い

もんじ焼きはただのおやつではなかった。それ自体が遊びであり、料理であり、社交であり、冬の歳時記であり、お絵描きであり、お腹を満たしてくれるものであり、味の創造をするものであった。冬になってもんじ焼きの台が備え付けられるのを毎年楽しみにしていた。本当に好きだったもんじ焼きなのに、別れは突然に来た。


中学生になったのである。
中学生になって生活が変わった。部活にも入って忙しくなった。意識も変わった。自分はもう子供ではない、駄菓子屋は小学生までの子供が行く場所だという思いが生まれ、パタリと行かなくなってしまったのである。
さらに中二のときに父の転勤で宇都宮を離れた。同じ県内なのに転勤先の土地にはもんじ焼きの文化がなかった。かくして、もんじ焼きは私の世界から遠のいてしまった。

大人になって東京で働き始め、もんじ焼きの大人版と言えるもんじゃ焼きを食べに行く機会を得た。もんじゃ焼きはもんじ焼きと同じような小麦粉を水で溶いた液がベースだが、そこにキャベツや干しエビや肉や海鮮など具がたくさん入っている。お店の人が作り方を教えてくれた。

1)まず、液が垂れないように、具だけ鉄板の上に出す。
2)大きなヘラでキャベツをはじめとした具を切るように叩いてみじん切りの状態にする。
3)みじん切りになった具材を楕円形のドーナッツのように中央を空けて土手の輪を作る。
4)具材の土手の中に少しずつ液を入れる。 

濁った液体が具材の土手に堰き止められて湖面を作る。鉄板の上のダム。しかし、野菜のみじん切りがしっかりできていないと、ところどころから液体が浸み出す。それをヘラで止めて土手に押し戻す。そうこうするうちに、徐々に液体が固まってくる。そうしたらお次は土手を崩し、もんじゃの液と混ぜ合わせ、水分が飛んでほどよく焼けるまで待つ。

小さなヘラで掬って食べるのはもんじ焼きと同じだ。おせんべいも作れなくはない。注文したもんじゃ焼きは店で一番人気だという「もち明太子もんじゃ」。お餅がいい具合に具を絡めてくれる。そしてもんじゃ焼きを食べながら飲むビールの美味しいこと!熱々のもんじゃと冷たいビールは最高の組み合わせだった。大人もんじゃも悪くない。

なのに、遠い昔に置いてきたもんじ焼きへの愛情が胸の奥で再燃する。どんなに具沢山で豪勢だろうが、もんじゃはもんじではない。具らしい具もない小麦粉を溶いただけのもんじ焼きを、鉄板の下に練炭を入れたみんなで取り囲むもんじ焼き台で食べたいと思う。時にはベビースターラーメンを入れたり、おせんべいや目玉焼きを作ったり、世界地図にしたりして。

時代は変わり、駄菓子屋自体がもう絶滅しかけている。あったとしても昭和を再現したような模倣物だったりする。地元宇都宮では、お好み焼きやもんじゃ焼きとともにもんじ焼きが食べられる店があるようだが、冬の駄菓子屋にもんじ焼き台が設えられ子供たちが群がるあの景色はもう思い出の中にしかない。

人は成長するし、時代は変わる。その中でどれほどたくさんのものを時間の中に手放してきたのだろう。食べ物の思い出を掘り起こすこんなエッセイを書いているのは、手放し失われたモノたちの記憶のカケラを集めたいからかもしれない。


★★★いつも読んでくださってありがとうございます!「スキ」とか「フォロー」とか「コメント」をいただけたら励みになります!最後まで、食の思い出にお付き合いいただけましたら嬉しいです!(いんでんみえ)★★★

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