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祈りとは何か

どのような時に祈ろうと思いますか、と尋ねられ、祈りたいときってそういえばいつなのだろう、考えてみるとわからない、そう思った。

その人は答えた。「わたしは、心を持て余したとき」と。

あまりにもそのとおりだ……。

心を持て余し……自分ひとりで抱えきれなくなったとき……わたしたちは祈る。日常的な祈りのほかに、痛烈に祈りたくなったことが人生で何度かあるが、嗚呼、心を持て余すという表現ほどしっくりくるものが他にあるだろうか。

本当に本当に幼い頃、人地の及ばない領域の存在がおそろしく、どうか神様が在りますようにと願ったとき。脳卒中を起こして救急車の中で意識を取り戻し、心の底から、まだ生きている、生きていてよかった、と神の采配に感謝したとき。心が闇に包まれ、誰かを、何かをどうしようもなく憎悪し、そういった自分を嫌悪したとき。

どんな種類の情動であれ、ひとりで抱えきれないものを、抱えなければならないこともある。この世の誰とも本当の意味では分かち合うことのできない衝動も。そういったときわたしたちは、天の父よ、と呼びかける。呼びかけたくなる。


神父様がミサの中で、なぜ神は、イエスは、人の祈りを、捧げ物を望むのか、それをお話ししてくださった。今回の福音朗読はヨハネ6・1-15、「イエスは座っている人々に、欲しいだけ分け与えられた」だったのだが、これはパンを増やす奇跡の話だ。

弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にも立たないでしょう。」

ヨハネ6・8-9

わたしたちの捧げ物はちいさく、なんの役にも立たないかもしれない、そう思うこともあるだろう。どれだけ、世界の平和や人々の安寧を祈っても、無意味かもしれないと、そう思ってしまうことが今まで一度もなかったという人の方が珍しいのではないだろうか。
神父様によれば、イエスは、わたしたちのために捧げ物を求めるのだという。

わたしたちが、取るに足らないようなちっぽけなものだとしても、何かを捧げたとき、イエスはそれを尊い命のパンにしてくださる。少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹とが、周囲に集まっていた人々全員に欲しいだけ分け与えてなお、残ったパンの屑で十二の籠がいっぱいになるほど増えたように。

わたしたちが心を持て余したとき。それを祈りとして神に捧げることで、神はそれを受け止め祝福してくださるのだ。だから私たちは感謝のうちに祈らなければならないし、そうあるように招かれている。賛美と感謝を捧げましょう。それはとうとい大切な務めです。このお務めは、わたしたちのためのものなのだ。


祈るというのは存外難しい。神のみと対峙し、向き合わなければならないのに、次にやることや、さっきまで何をしていたかを考えてしまう。けれど、勉強会の後のミサは、自然と神様と向き合う準備ができているように思うし、得る気づきも充足感も普段とは異なるように思う。ミサの前の1時間、しっかり神様やイエスのことを考え、議論し、分かち合い、お祈りをしているからだろう。そう思うと、日頃の祈りにも準備が大切なのだと気付かされる。

勉強会の講師の方は、寝る前に5分祈っていたのを、シスターから10分にしなさいと言われたらしい。たしかに、5分では集中しきるのに十分ではないと感じる。私も日頃よく祈りはするが、形骸的なものになってしまうことがあるし、今は実家にいることもあってひとりで集中して祈る時間を取れていない。

けれど、単に時間を増やせば良いというものでもないはずだ。思うに、生活の中で日頃から神のみ旨を行おうとすることで、自然と、心を持て余して祈りたくなるような瞬間も増えるのではないだろうか。誰かのために心を痛めれば祈りたくなるし、良いことがあったときだって祈りたくなる。その情動を豊かに育くむことが祈りの準備となり、神の招きに応えられる心を養うことにつながるのかもしれない、と思った。

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