大切な“代わり”の何かを手放して、愛と愛着と執着とを見極めて、その先に。
お気に入りのタオルケットがあった。
幼い頃から私は、特定の手触りのタオルを大事にする傾向があって、いわゆる「ライナスの毛布症候群」と呼ばれるものだと思う。
(参考ウィキ)
いきなりだが、話は遡ること小学4年生くらいのころ。
私は、家族合同で親戚家族とバーベキューしに山へ行っていた。
当時何を思ったのか、普段は持ち歩かないのに、
そこには小さい頃から持っているお気に入りのタオルを持っていったのだった。
そして帰ってみたら、
案の定、車を探しても、親戚家族に荷物へ紛れてないか聞いてもらっても、どこにも見当たらない。
今となっては子供らしすぎる失敗を犯していてもはや笑えるのだが、当時の自分にとっては本当に笑いごとではなかった。
それからしばらくは、車の窓からタオルが飛んでいってしまう絶望の夢やらにうなされ、隣りに居たものが突然いなくなってしまう喪失感や恐怖に駆り立てられていたのを今でも覚えている。
心にぽっかり穴が開く、というのを初めて感じた。
ペットを亡くした気持ちに近く、このように無機物であるタオルに体感したというのもまた初めてのことだった。
それだけ私は、当時から物に対する愛着が深かった。
そこからだろうか。
私はこの「タオル」に対するトラウマと、ないものを別のもので埋めようとする気持ちが芽生えた。
この気持ちになにかと似た名前をつけるなら、「執着」である。愛着、ではなく。
そしてその後の私はどうしたかというと、
夏場に使っていた布団代わりにかけるタオルケットが、失くしたその大切なタオルに肌触りと色がたまたま似ていて、私はそれを「タオル」とみなし、気づけば使い方をタオルにしていたように扱うようになったのだ。
客観的に今となってそれを書いているからこそ、私は私の行為を実に滑稽だと思う。
そう、考えてみれば、「大切さ」というのは時間の経過によって生み出される。
どれだけ、対象に「愛」を与えたかがより重要となって、と同時に手放せなくなる理由であり、自分自身にかける縛りでもある。
これはものに対しても、人に対しても、同じと言えるのだろう。
であるからこそ、大切“だと思っている”ものを失くした途端、なにかに代わりを求めるというのは、自分を慰めているだけに過ぎず、その愛おしき時間まで依代へと移す。
代わりのものからしてみれば、見られているのは本物に似た仮面をかぶらされた自分。
代わりにされてしまったもの自体は愛してもらえていない。
逆説的に、代わりにしているのものを正しく見ようとすることに蓋をしている。
「本当にあなたはそれを大事に思っているのですか?」
「私はなくなったものの代わりは、これしかないので大事にしています!」
聞こえからして変な話なことにも、それに執着している最中はわからない。それが執着とも取れる。
しかも、この執着は本人に都合よく言うと「愛着」へと変わる。
だから本当にそれが、過ごした時間と関わりそのものを、清く大切にして生まれた愛からくる愛着なのか、執着からくる別のものとしての歪んだ愛着なのか、盲目にならずに見極めなくてはいけない。
──そして先日、私は燃えるゴミの日に、切れてボロボロになってしまった“代わり”のタオルケットを捨てた。
自分で縫ってきれいにしようかと思った。なぜなら愛があったと思ったから。
でも、それに労力を使えると思えるほど、どうやら私にはそれをもっと大事にしたいという気持ちはもうなかったらしい。だからこれは執着の手放し。むしろ、またひとつ、お疲れ様といえる心が私に整ったことの現れであるとも感じている。
そばにあったものが手元を離れる怖さは、一番私自身が知っている。
だから、かつてはどんなものも手放したくはなかった。
けれど、別れは来るものだし、
実体がなくても思い出だけがそばにあれば十分だということを、私は数年、数十年かけてゆっくりと学んでいる。
あのタオルの代用であったことを忘れるくらい、長い時間を過ごしたタオルケットに、微塵も思い入れがないといえば嘘になる。
(本当に、捨てたんだな…)とゴミ収集車に持って行かれたタオルケットの気持ちを考えたくなるほどに、
さきほどあれだけ代わりのもので得た愛着を語っておきながら、やはりその意味を再度疑い「愛とはなにか」というベタな問いを考えたくなるほどに、
失くなって心が肌寒くなっている。
失恋して未練タラタラの人間みたいだな、、、
なんてこんな良い大人になって少々気味の悪くも取れるタオル依存症の私が、タオルひとつで悟ったように言うのもまさしく気味悪いのだが。
そんな自分の恥を晒してまでも、
私は、自分の人生の中で、ささやかでもひとつの執着からの卒業したことを明るく宣言したい。
タオルケットよ、私に別れさせて、気づかせてくれてありがとう。さようなら。
わたしはこれからもっと、手放して生きたいんだ。
一つ一つ、固めてしまった鎧を脱ぎ去るように。
愛と愛着と執着を一つ一つ分解して見極めて、その先にもしなにも持ちうることがなかったとしても、
ただ解放できる自由な心が育まれていれば良い。
人生の最期には、
本当に大切なものだけ、
持っていきたいから。