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耳かきの話

 私の母は手先の器用な人である。
 料理、裁縫、イラスト、とチマチマした作業は何でも得意で、その指使いはもはや精密機械と言っていい。おまけに綺麗好きなところもあるので、家族の耳掃除をすることに並々ならぬ情熱を注いでいた。
 母からすれば得意分野の精密作業で家族サービスができるので、己の使命のように感じていたのかもしれない。

 そういうわけで私は子供の頃から頻繁に耳かきをされていたのだが、もちろん人並みに気持ちいいと感じておりました。
 なんたって耳の中は迷走神経が密集しているので、敏感にできてますからね。そんなところを手先の器用な母に弄り回されて的確にツボを突かれ続けて、開発されちゃった、と言っても過言ではありません。
 おかげで私は耳がかなり弱いです。自分の髪の毛が触れただけでもぞわぞわするし、友達がふざけて耳に息を吹きかけてきたりしたら「ひぁぁぁぁっ」と声を上げて飛び上がってしまいます。私の反応を面白がってやたら耳にフーフーしてくる友人がいるのですが、街中でそれをやるのはやめてくれませんかね……。

 さてそんな耳弱民族である私の元に、弟が遊びにきました。昨日は祝日だったのでアポなしで尋ねてきたんですね。色々マナー違反ですがお土産にお米を持ってきたので無碍には扱えません。
 私は「よく来たね」と米を凝視しながら弟を家に上げました。
 そのあと少し遅れて彼の身なりに目をやると、そのだらしなさにため息が出てきました。もっとオシャレな格好をしろ、と怒ってるわけではありません。彼は見た目に気を遣いたくてもできないので、哀れでならないのです。
 実はうちの弟は病気の後遺症が残ってしまい、手が震えるようになってしまったんですよね。そのせいで細かい作業ができなくなったので、髪も眉も手入れを怠ってるし、髭も剃り残しが目立ちます。ましてや耳かきなんて絶対に無理なので、横を向くと耳の中が汚れているのがわかります。
 この状態で彼女なんて出来るはずもなく……。
 病気になる前は家族の中で一番オシャレだったし、同じ母親に育てられただけあって耳掃除も好きな子だったんですけどね。いくらなんでも可哀想すぎます。
 憐れに思った私は、

「耳掃除してあげようか?」

 と申し出ました。純粋な家族愛から出た発言だったのですが、弟は「怖いからやだ」と拒絶してきました。 
 小学生の頃、私がお母さんの真似をして弟の耳掃除をしたら大失敗したことを今でも覚えているようです。

「あれトラウマなんだけど」

 心底嫌そうに拒否られました。
 私は「あの頃とは違う、経験を積んだから大丈夫、とにかくその耳をなんとかしてあげたい」としつこく食い下がりました。
 白状すると家族愛よりも極限まで汚れた耳穴をまさぐってみたいという好奇心が暴走し始めていたのですが、お人好しな弟は「そんなに俺のことを想ってくれてるなんて……」みたいな反応をしていました。
 弟ってこういうところがいいですよね。かわいいやつです。

 純朴な青年を騙すことに成功した私はソファに腰を沈めると、耳かきを片手に弟を手招きしました。

「なんかちょっと恥ずかしいな」

 などと言いつつも若干嬉しそうな声で弟が膝に頭を乗せてきます。
 ……待て、乗せる位置が私のお腹に近過ぎる! さすがに血縁者に密着されて喜ぶ趣味はないので、もっと膝の方に頭をズラしてから作業を開始しました。
 が、二秒で暗雲が立ち込めます。

「……」

 まあ手先の器用な母の血を引いてるしなんとかなるやろ、というガバガバ理論で始めたはいいのですが、まったく耳の中が見えません。
 そういえば母は視力1.2だけど、私は眼鏡やコンタクトを着けても乱視が残るド近眼でした。手先の器用さ以前に目の性能に絶大な格差があるのです。

「ねえ大丈夫そう?」
「問題ないよ」

 思いっきり問題だらけなのですが、別に私の耳じゃないからいいやという開き直りと、それでも弟の耳を何とかしてあげたいという慈悲の心で耳かきを動かします。

「……………………」
「いつ入れるの?」

 ビビった私がカリカリと耳介を引っかいて時間稼ぎをしていると、いつ耳穴に取りかかるのかと催促してきました。
 いいの? そんなことをしたら君の鼓膜はただでは済まないよ?
 耳かきを申し出たことに内心後悔しつつも、第一子の見栄と尊厳を守るべく恐る恐る耳かきを挿入していきます。

「…………っ」

 決して鼓膜を傷つけないよう、入口周辺を優しくなぞって目立つ汚れだけを掻き取り、ティッシュに置く。この動きを三回ほど繰り返しましたが、まだ弟の鼓膜を破った感覚はありません。
 ほとんど視界が確保できてない状態でこれは悪くないだろうと自惚れていると、

「物足りない」「ビビりすぎ」「もっと奥まで入れていい」

 と次々に注文が飛んできます。
 ……三回掻いただけで緊張のあまり腋と背中に汗をかいてるんだけど……。
 実は言うと私は歴代の交際相手には綿棒でしか耳掃除をしてあげたことがないので、ちゃんとした耳かきは弟相手にしかやったことがありません。
 なのに強がって経験豊富みたいなことを言ったせいでもう後戻りできないし、ほんとどうすればいいんでしょうね?

 ……いや、私も昔から細かい手作業は得意だったし……大丈夫だし……。
 単に視力と経験値で母に負けてるだけで、私の方が若いし足も速いから何とかなるはずっしょ! 
 耳かきに関係ない能力でしか勝ってないことは不安材料でしかないのですが、それに思い至る冷静さはとうに失われています。
 もはや野生の勘としか言いようのない感覚に従って弟の耳穴を探ると、「悪くない」という感想が出てきました。
 そうか、このくらい奥まで入れていいんだ……!
 でも先に私のメンタルが音を上げたので「もう全部取れたよ」とほらを吹いて反対側の耳にとりかかりました。
 先ほどと同じようにチキンな手つきで入口付近の垢を四割ほど掃除し、「すっかり綺麗になったよ」と誤魔化して弟を私の膝から解放してやります。

「……なんかまだ耳の中でザリザリ音が」
「全部取れたよ」
「鏡見ていい?」
「お米ありがとね!」

 強引に話の腰を折り、世間話をしているうちに何かを察した弟はすごすごと帰って行きました。
 ……これは要練習ですねほんと……。

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