インド人のピアノ #2

夜が落ちてきた。

22時になったら、近隣住民への配慮で灰皿の位置を裏口から正面へ移動させることになっている。ブロック塀に腰を掛けて煙草を吸っていたカップルに、「夜だから向こうに移動してねー!」と軽く声を掛ける。まだ5月なのに顔で感じる風が生温くて、そんなに急いで夏にしなくてもいいのにと思う。

このアルバイトはインターネットの求人サイトで見つけた。「ホステルで働き始めた」と報告すると「ホステスじゃなくて?」と冗談を飛ばしてくる友人には、「安くてカジュアルめのホテル」だと説明している。個室は少しだけあるけれど、ほとんどの宿泊客が二段ベッドが4、5台入ったドミトリータイプの部屋で眠る。シャワー、トイレ、洗面台等のベッド以外のものは全て共有。基本的な調味料と調理器具を備えたキッチンと、宿泊客が団欒できるカフェスペースが受付カウンターと同じ1階にある。宿泊費が安い分、ホテルによくあるようなアメニティーは追加料金を払って購入する仕組みだ。『Danro』に泊まりに来る人の内訳は、若めの気さくな外国人観光客が7割、出張費を浮かせたいサラリーマンが2割、時期によっては地方の就活生が数名、あとは人種に関係なく普段何をしているのかよく分からない、長期滞在の主たち。

幼い頃から、ホテルの仕事というのに漠然とした憧れを抱いていた。旅先で1日を終えて帰る場所が素敵だと旅の思い出に大きく加点を与えると思うし、そんな場所を作る仕事に魅力を感じていた。

「ホテルじゃなくてホステルを選んだのは?」と、面接の時にヨウさんに聞かれた。「アットホームな空間で、近い距離でお客さんと向かい合えると思うからです」

半分ダウトーッ。と自分でツッコミを入れる。わたしは、大人の世界にごまんと存在する難しいルールが少なそうだと、そんな匂いがした方を選んだのだ。

「ほう。じゃあ、今まで泊まったホステルでの思い出を2分間英語で喋ってみて」ほう、の後の間が少し長かったような気がして、この人も今頭の中でダウトーッと突っ込んだのではないかと不安になりながら、韓国旅行で利用したホステルの話をした。

その日のうちに、「採用です。今週末からお願いします」と連絡がきた。もともと違う店舗の求人に応募していたのだが、ヨウさんがわたしの何かを気に入ってくれたのか、丁度一人辞めた後だったのか、系列店である『Danro』のスタッフとして働くことになった。働き始めてから、ヨウさんは中国語は堪能な反面、英語をほとんど理解していないことを知った。「ごめんね、ただ響きを聞いてみたかっただけ」と、まるで音楽鑑賞のようなことを言っていた。

 。。。

金庫を閉めて、キッチンのシンクに積んであるお皿を片付けて、ゴミを捨てて、明日の早番の人への引き継ぎを書いても、最後の1人がまだ来ない。チェックインは23時までという決まりになっている。後10分だ。

「すみません、遅くなりました。今日宿泊予定の者ですが」

登録してある番号に電話をかけようと受話器に手をかけた時、ドアが開いてスーツの男が一人入ってきた。持ち物は大きなスーツケースが一つ。同い年くらいだろうか。南アジア系の顔に似合わない完成された英国のアクセントで、そのミスマッチに笑ってしまいそうになるのを抑える。

「いえいえ、間に合ってよかったです。今日はどちらから?」

「大阪です。あ、いや、インドです。インターンで1ヶ月大阪にいて、明日帰国するところです」

今の所わたしの目と耳から入って来た情報のうち、インド人だと納得できるものは顔しかないぞと彼を見つめていたら、「あ、アクセントかな、ぽくないですよね?インド育ちですけど、イギリス式の学校に通っていたんです。最近はインドでも人気で」と丁寧に頼んでいない解説をしてくれた。

「ああそうなんですね、不思議に思ってしまいました」

ミスマッチの違和感にこみ上げる笑いを誤魔化して一呼吸置くのも束の間、彼が本領を発揮し出した。カウンターに置いてあったわたしの大学の課題を見て「もしかして学生?」と聞いてきたのが始まり。「どこの大学?」「えー!大阪からのバスで隣だった子も同じ大学だったよ!」「何を勉強してるの?」「卒業したら何するの?」「僕は将来IT企業で働きたいと思ってるんだ!」「よかったら連絡先交換しようよ!」

久しぶりに会話のできる同世代に出会ったのかもしれないが、こちらにも終わらせるべき仕事がある。彼と向かい合いながらも視界に入る時計がもう23時を回っているのを確認して、わたしは戦闘態勢に切り替えた。質問攻撃の間、彼が息を吸うタイミングに針を通して縫うように、チェックインシートに情報を記入させ、宿泊費の精算を済ませ、既にまとめ終えてしまった売り上げに追記することに成功した。よくやった。勝利は目と鼻の先だ。

「シャワーは各階にあるので、順番を守って使ってください」

「はい」

「洗濯機は、5階にあります」

「はい」

「冷蔵庫に物を入れるときは名前と部屋番号を紙に書いて貼ってください」

「はい」

「説明は以上ですが、何かご不明点は?」

「ピアノはありますか?」

「え?」

見えていた勝利が、音を立てずに散っていったのが分かった。働き始めて1ヶ月と少し。予想外の質問をされたことは何度もあったが、これは初めてだ。

「いえ、ピアノはここには…」

「ですよね。じゃあキーボードは」

「申し訳ありません。ないです」

この男は、宿泊施設を何だと思っているのだろう。しかも、わずかの可能性に掛けていたという訳ではなく、ここにピアノがあることを大いに期待していた様子だ。さっきまであんなに食い気味に質問攻撃をしていた人間は今、しぼみかけた風船のようになっている。

「どうして」

そう聞く以外の選択肢を、わたしは持ち揃えていなかった。

「どうしても日本で弾きたい曲があるんだ」

止めるタイミングを失ったBGMが、やけに大きく聞こえていた。

夜は長くなりそうだ。



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