続・横浜トリエンナーレ
横浜を訪れたのはもう3週間ほど前だが、改めて展覧会を振り返る。
色々な人と話した結果、得られた考えをまとめた。
「アート」の捉え方
トリエンナーレの賛否が大きく分かれていたのは、人によってアートの価値観が異なることが1つの要因と考えられる。
視覚的に美しい「アート」
出品された現代美術作品に対して「このような作品はアートではない!」と批判的なアートを持つ人の価値観は、
アート=表現が巧みで、見る人が快楽を享受できるもの
であると言える。
この価値観は《泉》で有名なマルセル・デュシャンが登場する、19世紀より前のアートに対する一般的な見方だ。
ここで、横浜トリエンナーレのホームページからコンセプトを見てみると、今回のトリエンナーレは、世界中に住む様々な人の生きづらさや苦悩がテーマとなっていたことがわかる。
参考に、トリエンナーレのコンセプトについて説明している公式ホームページのリンクを記載する。
https://www.yokohamatriennale.jp/2024/ad
言葉を選ばなければ、展覧会全体が「私たちが目を背けたくなるもの」という意味で鑑賞者の不快を喚起する作品の集まりであった。
先ほどの
アート=表現が巧みで、見る人が快楽を享受できるもの
と考えている人にとっても、やはり不快であったのだろう。
トリエンナーレで出品されていた作品の持つアート性とは何か
それは、私たちが暮らす世界の理解の手立てである点である。
哲学、宗教学、心理学、数理学、物理学、生物学など、あらゆる全ての学問は、人間そのものや人間が住む世界の理解につながるものとして捉えられる。
アートもその一環として、この世界とは一体何なのかという大きな問題に対するアプローチの方法の1つとして、考えることができるだろう。
つまり、
アート=人間が暮らす世界について理解を深めるための手段・方法
という考え方だ。
世界のありのままの苦しさを示す展示
トリエンナーレに出品された作品の存在自体や、表現されていたことがらは全て、この世界のありのままである。
社会で起こっていることを事細かに全て理解し、世界中に住む様々な人々に共感することは不可能だが、アート作品を媒介すれば、自分と異なる社会に暮らす人について知るきっかけを作ることができる。
情報の提供と認知という点に関係して少し話が逸れるが、マスメディアが発信する情報に偏りがあるということは、情報モラルや情報リテラシーの話題においてよく言われる。
しかしながら、その真偽は定かではないにしろ、情報が発信されているということや、そのように発信したい人が存在しているという点は事実だろう。
アート作品も、それが伝えている内容には偏見や個人の思想が混じっていて、客観的に正しいことについて表現しているとは必ずしも言えないが、そのように表現したいとその人が思っていること、そう思った人が実際に表現した作品があるということ、は客観的事実である。
マスメディアが情報発信することと、アーティストが作品を発表することはもちろん様々な点において異なるが、異なる文化圏に暮らす個人と個人の相互理解という部分で、アートはマスメディアが示す情報よりも個人の心に強く訴えかける力を持っているのではないか、と思うのだ。
展覧会のコンセプトに示されていた、
「個⼈が国などの枠組みを越えてつながる⾏為(individualinternationalism)と個⼈が⽣きるなかで発する弱い信号とが結びつくような」
世界の実現のためには、現在生きている個人が異なる文化圏に暮らす個人について知り、考えを深めることが必要で、そのために社会に生きる苦しみをテーマとした展覧会を国際的に行ったことにはやはり重要な意味があったのだろうと思う。
現に私が感化されてますし。
トリエンナーレの感想
私自身が作品と対峙し、トリエンナーレの直後に抱いた感想としては
面白いことをしている人がたくさんいて良いと思った
じっくり見たい作品がたくさんあって見切れないのが勿体無い
大量の文章を読んで頭が痛くなった
作家のエネルギーを感じられる作品が多かった
芸術と社会に対する考え方が深まった
といった具合で、私の中での総合的な評価を簡単に言い表すとしたら、100点中80点という感じ。
正直、ネットの批判を見るまでは良い印象を持っていたが、展覧会を酷評していた投稿をきっかけに、その気持ちに大きな疑念が沸いた。影響されやすい性格なので仕方ない。
しかし、改めて考えを深めてみた結果、ものごとの受け止め方は人それぞれなので、他人の評価についてはあれこれ考えすぎなくてもいいやと思った。
人には人の価値観。人には人の乳酸菌。
とにかくこのトリエンナーレに行ったことは、自分にとってたいへん勉強になった。
拙い長文をここまで読んでくださった方、ありがとうございました。