荻野みどりができるまで - 幼少期 -
こんにちは。株式会社ブラウンシュガー1STという食品会社を経営する、荻野みどりです。2011年に創業して13年経った今、経営者として新たなチャレンジの道を歩み始めました。そこで、これまでの経歴や見ている未来や、挑戦の記録を、当社のチームやお客様、フォロワーさんにシェアするために、綴っていこうと思います。まずは長めの自己紹介から始めていきます。
地方の中流階級に、次女として生まれる
福岡県久留米市、漁民の生活を守ることを人生の使命とする父と、専業主婦の母のもとに次女として誕生。父が長男のため、祖父母との2世代住居で育った。祖父は、戦後に和菓子屋を創業し事業を拡大、名を残した商売人だった。声が大きく、行動力あるワンマンな剛腕の起業家。
父は長男だが商売を継がず、会社員として毎日朝早くに電車に乗り会社に出かけ、夜遅くに帰ってきた。仕事に対する志高く、人望もあり、一歩一歩昇進し課長になり、部長になり、着実に出世をしてきた。
母は、そんな父を支えつつ、子供を育て、祖父母の面倒をみる典型的な長男の嫁の役割に従事していた。お見合い結婚の父と母だが、喧嘩する様子を見たことは一度もない。母が、父の意見に逆らったことは一度も見たことがなく、これは幼いわたしには他人に誇れることにひとつだった。わたし自身も、家長である父に無条件に従うことは当たり前と認識していた。
しかし、思春期になったわたしは父に意見を言うと「くちごたえ」と一蹴され議論にならない状況に苛立つようになった。大人になり、その矛先は母にも向いた。「父が黒といえば黒、白といえば白と信じて疑わない。母個人に思考、意思はなのか?自分の頭で考えて、自分の人生を生きていないのではないか?」と母に反発した時期もある。
自宅にある小さな日本庭園には、小さな池があり、鯉たちが口をパクパクする様子をじっと見つめるうちに恐怖に感じたこと覚えている。
- 5歳- マサラチャイの記憶
自宅の近くに魔女のような叔母が住んでいた。私が5歳だったある寒い日の夕方、武子おばちゃま(父の姉)の家で飲んだチャイの温かさと香りを、今もふと鮮烈に思い出すことがある。
叔母の住む築100年以上の日本家屋のお座敷には、先代から継いできた伝統工芸品と、メキシコなど南米のカラフルな民芸品、ヨーロッパの食器などがセンスよく、絶妙なバランスでごちゃごちゃと並べられていた。
幼稚園のコートを脱いだわたしは、絨毯に上がり、大きな鶯色の火鉢に吸い寄せられた。かじかむ両手をかざしていると、叔母が真っ赤なミルクパンを火鉢にかける。中にはお水が少し入っている。そこにホールスパイスを指で粗く潰して加えていく。
「みーちゃん、今日みたいに寒い日は生姜をいっぱい入れようね、黒胡椒も入れて…リラックスするようにシナモンも入れようね。」
そんな具合にスパイスを調合していく。たっぷりのミルクで仕上げる叔母のマサラチャイを、ひとくち口にふくむごとに体はポカポカとして、心も緩み、いつの間にか火鉢の側で溶けるように居眠りする時間。とても満たされて幸せな思い出だ。
- 7歳- コルビジェと民芸の記憶
わたしを形成した、幼い頃の鮮烈な記憶の断片をもうひとつ。それは、もうひとりの叔母(武子の妹)の家で過ごしたお正月のワンシーンだ。
叔母の義兄(菊竹清訓氏)が設計した白く洗練された建物に、叔父が世界中から集めたおもしろい形の照明や椅子、民芸品、先祖代々引き継いできた伝統工芸品が並ぶ。叔父はコレクションしていた民芸品の羽子板の中から、お正月らしい一枚を選び飾っていた。わたしは、叔父がヨーロッパで買ってきたという、古い木製おもちゃのメリーゴーランドをまわして遊ぶのが好きだった。
棚に並ぶ彫刻や民芸品の隙間に、美しいビルの模型があった。
「それは、エンパイアステイトビルだよ、ニューヨークというところにあるんだ」と叔父が教えてくれたが、当時の私にはその単語の意味がひとつもわからなかった。(後日談だが、19歳のある日、NYの本屋でインテリアの図鑑を眺めていたら、あの大きな提灯はイサムノグチのランタンで、頭をよくぶつけた照明はアルコランプ、チクチクするハラコのチェアはコルビジェ、カラフルな椅子はイームズだったとわかって、心臓が飛び出そうなくらい驚いた。)
親族がみな集まり、正月料理を愉しんだ。有田焼の大皿に盛られた叔母特製のがめ煮(筑前煮)は、いつも絶品だった。特別な日のための華やかな絵皿、漆の椀、ひとつひとつが丁寧に選ばれていて、そこに盛られた料理は、南天の実、ゆずの皮、金箔などで美しく仕上げられていた。
大人たちの会話に飽きてきた私は、家を眺めてまわった。なんとなく白い絨毯敷きの廊下の真ん中に寝そべった。
天窓から差し込む光の筋、刻々と形を変える影をぼんやり見つめていた。建物が、ただの箱ではなく生命体のように感じられ魅了されて、目が離せなかった。光は壁をつたい、地面におりて、私の顔にやさしく降りてきて。目をつぶってまぶた越しに温かさを感じているといつの間にか寝てしまってた。とても穏やかで幸せで、満たされた記憶。小学校低学年の頃だったと思う。
光景や五感から記憶を辿ってみる
今回、このように幼い記憶を思い出してみて、「幼い頃に見たもの触れたものが、人格の重要な部分を形成している」ということに気がついた。そしてそれは、恣意的に与えられたものではなく、体感で記憶していたり、ぼーっとする中でなんとなく魅了されたりしたもの。幼いときに五感を通してインプットしたものが、成長とともに折々、タペストリーに紡がれていくなと。
公園の木漏れ日や、朝の神社の静寂、木の実を踏み締める音や感覚、お神輿の手触りや香りなど。そういうなんてことない、日常のワンシーンなんだけど、やたらと記憶に残るものについて、紐解いて改めて見つめ直すと、自分のことをもっと理解することができる。
次回は、この続き。中高生の頃の記憶を辿ってみたいと思う。