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黄金のスープ。 夢と、こがね色の暮らし 【食エッセイ】
「いってきます」
「いってらっしゃい。忘れ物ないようにね」
朝、夫を送り出す。
2月も半分が過ぎようとしている。
今月はとくに出張が多い。
北へ南へと。雪が降っていようが降っていまいが、そんなのは関係ないと、旅立つ夫を見送る。
私が夫の立場だったら、熱があるかもしれない、寒いし霜焼けになったら取り返しがつかない、飛行機が飛ばない気がする!などとよからぬ心配(期待)を抱いてしまうかもしれない。
こんなにも足取りかるく、家をあとにする夫はたくましいのだ、と改めて思う。
「さてと…」
自分の準備に取り掛かる。
朝ごはんの片付けをして、歯磨きをして、よそ行きの服に着替えて顔をつくる。せっせとルーティンをこなしていく。
いつもとほんのちょっと違うのは、
頭の中はもう
「晩ごはん何を食べよう」でいっぱいなこと。
ここ数日のこと。あわただしく過ごしながらも、ごはんはお家で食べていた。献立を考えて食材を調達してキッチンに立って。それから後片付けとまたやってくる明日のごはんのことを考える。
そんな時間がたいせつで大好きなのだ、と思う一方で、「たまには誰かが作ってくれたごはんを食べたい」という気持ちはまったく別のところからわいて出てくる。
結婚して、もうすぐ3年。
「ごはん作って!」
などと、夫に淡い期待をいだくことは叶わなかったときのダメージがあまりにも大きすぎる、と痛いほど学んだ。
その代わり、妻はひょうひょうと、美味しいものを食べにいく。
平日に別々に晩ごはんを食べることにしてもいいのだが、夫はどうしたって不在のことが多い。それならば、いないときを狙ってひとり食事をする方が気楽でいい。
夫がいないのがひと晩なら「そうなんだ、いってらっしゃい」と送り出す。
けれど、数日、一週間とつづくとどうも夜が長いような気がしてしまう。そんな日は、ひとり外で油を売っている方が気が紛れたりするものだ。
…
夕方6時を過ぎたころ。
まっすぐ目的地へと向かう。寄り道はしない。
食べたいもののシュミレーションはすでに脳内で済ませている。
食券を買い、案内されたカウンター席に腰かける。
お口の中は、もうとっくにあの黄金スープを受け入れる準備はできている…
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ピカピカに輝く、うつくしいスープ。
結婚当初、夫にはじめて連れられて行った神座。
「病みつきになる」と噂には聞いていたものの、ラーメンはどこで食べてもおいしいのでは?と半信半疑でしかなかった。
ズズズ
スープを啜る。
「これこれ、これ」
あのときの記憶が蘇る。
「おいしい!」と衝撃が走るような味ではない。それよりもどこか「知っている」に近い味わい。
スープを口にはこぶ左手が止まらない。これは、ラーメンではなく、おいしいスープに麺が入っている、と言った方が正しいような気さえする。
それ以来、どういうわけか
こっそりとここのスープを啜り続けている。
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ちょうど良い、この小ぶりさがありがたい。
そういえば、夫は無事に着いたのだろうか…
飛行機は無事に飛んだのだろうか…
ケータイを確認するもとくに連絡はない。
連絡がない、ということは問題がないということ。
「よかったよかった」
と、ひとり安堵して、
ケータイをカバンにしまい、スープを啜る。
ズズズ
…
ずいぶん昔の話。
パイロットと結婚することを夢見てきた。
「どうして?旦那さんほとんど家にいないかもよ」と訊かれるたびに、「夫が家にいない方がうまくんじゃないかと思って」などと答えていた。
複雑な家庭で育った私にとって、それは本心であり、自分なりの策でもあった。たまにいる夫になら妻は優しくできるのかもしれない。と、ながいあいだ淡い期待を募らせ、こじらせてきた。
今ふりかえれば、パイロットでなくても数日や数週間、家をあけるような働き方をする職業や働き方はもっとたくさんあるとわかる。
世の中を知らなかった、のだろう。
ただ、純粋に憧れていた?
明確な理由などなかったのかもしれない。
けれど、夢というのは不思議なもので。
想い続けたからなのか。
そういう出会いに恵まれたことがあった。
でもうまくいかなかった。
簡単に砕けていった。
夢なんて、そんなものでしょう。と思った。
ズズズ…
ひとりだからか。こんなことを思い出してしまう。
ピカピカにひかる液体をあわてて体内に吸い込み、過去を浄化させる。
嫌なことは美味しいもので上書きしてしまいたい。
透き通るスープに映る、ぼんやりとした自分の輪郭が浮かぶ。
その瞬間、
「あ、叶ってる。夢叶ってる」
と心の中でつぶやく。
私は今ひとりで、夫は数日帰ってこない。先週も、来週も同じように。
味気ない夜、なんて思ったけれど。
これはかつて私が望んでいた結婚生活だ。
「夫が家にいない方がうまくんじゃないかと思って」
根拠のない、幼い子どもが言ったこと。
それを今、根拠のあることへと昇華しようとしている。
夫が家にいない間に、物足りなさを感じて。ありがたさを知る。
ひとりが楽しいから、ふたりが待ち遠しいに変わる。
「ラーメン食べたよ!」
「いいな!」
今夜にでもきっと、電話でこんなたわいもない話をするのだろう。
それが夢みたいで、黄金の暮らしなのだと、
夫の帰りを待ちながら想う。