サラバ青春、マタネ青春。
思い出しても眩しい、あの頃のこと。
ずっとずっと前のことだけど、昨日のことのように思い出せる。普段はきれいに畳んでそっと心の引き出しにしまっておくんだけど、たまに開けてみる。
楽しいこと、思い出したくはないこと。
もれなく両方が鮮明によみがえる。全て自分のことなのに、他人事のように感じるのは、時の流れによるものなのか。
2ヶ月前、高校時代の友人の結婚式に参列した。
青春時代を共に過ごした、テニス部の仲間との再会。こうして集まるのは、おそらく別の友人の結婚式ぶり。記憶はあいまいなものだ。
あのときはこうだった、あの日のあれが忘れられないと、ケラケラ笑い合ったりして、思い出にどっぷり浸る。
話は尽きず、新たな会は早急に段取りされた。
日が近づくにつれて、だんだん憂鬱になった。
正直、“行きたくない”と思うときがある。会えば楽しいし、来てよかったと思うだろうに、その日を迎えるまでが億劫なのだ。
“やっぱり行きたくない病”、発症か。
と自分に問いかける。
なぜ、行きたくないのかを自問する。
会いたくないのか?
_違う。会いたい。みんなに会いたい。
では、東京から地元まで遠いからか?
_遠い、はひとつの理由と思う。でも、それだけではないような。
何を話すのだろうと思うからか?
_…そうね、それはある。
女性ばかりの10人弱のメンバー。
性格もルックスも趣味嗜好も違う少女らが集って、ひとつのスポーツに没頭する。“テニス部に所属する人間”という共通点だけで、うまくチームが機能していた。
あれから10年以上経った今、住む場所が違えば、ライフステージも異なる。バリバリ仕事をしている子もいれば、子育てに専念するため働く時間をセーブしている子もいる。新婚もいれば、独身もいるし、子どもが小学生になるママもいる。
それぞれの場所で、それぞれが生きている。
共通点と言えば、同じ年齢で、同じ思い出を共有していること。
それだけのこと。
それだけのために、集う会になんの意味があるのかと、心のどこかでどうしても思ってしまう。
迎えた当日。
どんな気持ちであろうが、その日は淡々とやってくる。
そわそわしながら集合場所に向かう。思い出の地を歩きながら、ああこうだったかもしれない、ここが変わったかもしれない、とキョロキョロしながら進む。
「いらっしゃいませ。」
友人たちの到着前に、お店の方に先に声をかける。
「予約した、、あれ名前が、、」
予約してくれた友人の苗字を伝えようにも、出てくるのは旧姓ばかり。
「〇〇様でしょうか?」
「あ、そうです。今日はよろしくお願いします。」
察してくれる店員さんに感謝しながら、席につく。友人たちが順番に集い、団欒が始まる。
最近どうやって過ごしてる?
子どもはいくつになった?
仕事は順調?
…
近況を話しながら、時折あの頃を織り交ぜる。
「変わってないね。」
と言いながら。
心配していたのが嘘のように、どんどん時間は過ぎていく。楽しい話に美味しい料理。今日は来て良かったなあ、とじっくり噛み締める。
後退りしていたのは、もう何もかもが違う私たちでは、分かり合えないんじゃないかと思ったから。
変わってしまったことが多すぎて、どう振る舞えば良いか、わからなくなってしまったから。
けれど、変わったのは私だけじゃない。
みんなにもそれぞれの10数年があって、あの頃みたいに明るいだけじゃない。
たくさん失敗して躓いて、隠したいこともいっぱいあって。
それらをまるっとまとめて、今があって、
友人たちもあの頃とは違うし、私も違うのだと。
同じ年齢で、同じ思い出を共有しているだけで、笑い合ったり、励まし合ったり、認め合ったり、ができる。
「変わってないね。」
と言われることに、どこか安心して。
変わった自分をどこか後ろめたく感じる必要はないのだと、あたたかい空気に包み込まれて気づく。
変わったことと、変わらないことがある。
どちらも同じくらい尊い。
私は重い腰を上げて、また戻ってくるのだろう。このあたたかさがあるなら、なんだって良くなるのだから。
あの頃は過ぎ去ったけれど、消えて無くなったりなんかはしない。
サラバ青春、マタネ青春、だ。
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