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ご法度なおしゃべり。
仕事の話や家庭の話からはじまり、
夫がぜんぜん家事をしなくて本当にもうな話に、首を突っ込みたくても突っ込めない子どもの進路の話…
とまらない!おしゃべりタイム。
私の番よ!次はあなたね!と暗黙のルールのもと会話が展開していく。ここは一旦引いて、相手の話に耳を傾けて、うんうん…
エンドレス!ネタは尽きない。
盛り上がりは最高潮。
ふと、会話の主導権をもつ方が言う。
「こないだの選挙、投票に行った?」
「もちろん。行った行った。」
「まあ、結果は予想通りよね〜」
当たり障りない会話がつづく。ちょっと深掘りしてそれぞれの意見を聴いてみたい気持ちもあるのだが、ここは我慢。
だって、政治の話は、タブーでしょ?
本来ならば、すうっと流れていく話題。けれど、誰かが切り出した。
「あの方、当選すると思ってたのかしら?」
その言葉を聞いて、別の方が吐き出す。
「歳上を敬いなさいよね〜」
ひやっとした。これは聞いてはいけないような気がした。
一度発してしまったが最後。どんどん溢れるように、胸の内のものが音になる。
耳障りの悪い音が、右から通り左に詰まる。一度入った言葉が、刺々しくてうまく体から抜けない。ぐっと苦しくなる。
それぞれ意見があるのは当然のこと。想いや方針に共感し、一票を投じる。なんて素晴らしいこと、と思う。
けれど、隣のあの人も同じ考えか、というと。違う方を応援しているかもしれないし、同じ方を支持していたとしても異なる捉え方をしている可能性だってある。
誰が間違っているなんてないし、正解もない。
答えがあるのならば、指摘して、正しい道に導ける。だが、生活において、正解があることの方が少ない。ひとりひとり自分の頭で考えて、動く。それがひとつの正解になるだけ。
一方で、自分はどうだろうか、と省みる。
”誰の意見も否定していない。”
と言い切れるだろうか。
意見を内から外に出すとき、どうしても感情が入る。その延長で、誰かを傷付ける発言はしていないだろうか。
誰かを肯定するとき、別の誰かを否定している。
その可能性はいつだってはらむ。
では、自分の意見は公でいうべきではないのか。
と言うと、きっとそうではない。
外に出さなければ、思いではあるが、意見にはならない。
意見がなければ、行動に移せない。投票にもいけない。
気の知れた家族や友人たちと、政治の話はする。ニュースを観ながら、世間話をしながら。特に、違和感を覚えることもなければ、やきもきすることもない。ただ自然に会話が進む、そして流れる。
親しいからこそ、安心してできる話。
感覚や考え方が近いと思う相手であれば、ふと「選挙行きました?」と聞いてみてもいい。例え、意見が異なっても、「そうなんですね〜」と言って、また別の話に移ればいい。今後、この話はやめておこうとなる、だけのこと。
おしゃべりは楽しい。賑やかで、陽気になって、エネルギーがみなぎる。
ただ、リスクは付きもの。
「これはご法度なのかも」という歯止めを、いつも心の中に持ち続けたい。