タバコと夜風。
秋の夕方。心地の良い風に吹かれる帰り道。
商店街のたこ焼き屋からとどくソースの匂い、
一杯どう?と誘われる芳ばしいコーヒーの香り、
すれ違う観光客らしき女性からただよう香水の薫り、
そして、
「あ、知ってる」に巡り合う。
指先や髪にかすかに残るタバコのにおい。
思わず、ある女性を思い出す。
・
「夜に吸うタバコが好きなの」
21時を過ぎたころ。
ラタン製のロッキングチェアにすっぽりと体をおさめ、ゆらゆらとさせながら、彼女は言った。
火をつけ、タバコをふかす。
室内ににおいが篭らないよう、外に面している大きな窓をすこし開け、そこから煙を逃した。
「体、なおってないでしょ。」
数日前、ゴホゴホと咳をする姿をみて、どうしたのかと尋ねた。そしたら、少し決まりが悪そうに、気管支炎だと彼女は答えた。
原因は明らかだ。
前々からやめたいと言った、そのたばこのせい。
体調も良くはなさそう。
だから、一緒にいる私がなんとかして止めなくては、と思った。
私は彼女の家に居候をしていた。
フランスで家がなかなか借りられず、住む場所に困っていたところ、知り合いの知り合いが彼女を紹介してくれたのだ。
もともと、私と彼女は顔見知りだった。
友人たちが集うパーティーでいつもタバコを片手に隅っこにいる。みんなといるのにひとりでいる、変わった人だと思っていた。
私たちは大した会話を交わしたわけでもないのに、どうやら互いに興味があったらしい。
彼女にとって、日本人が物珍しかった、というのもあるらしいが、私の話す言葉が好きだといってくれた。
その褒め言葉が純粋に嬉しかったし、口数が多くない彼女の、たまに発する言葉にすんと余韻を残す、その独特のリズムとアプローチに、私はすっかり虜になっていた。
そうして、縁あって居候することになった。
私の家が決まるまでの間、数日だけ、と。
日中、彼女は仕事に出ている。
自身のことをアーティストと名乗りつつ、他のアーティストの作品を展示したり、企画することで生計を立てているようだった。
帰宅後、夕食の後は決まってタバコを吸う。
少し愚痴っぽいことをこぼしたと思えば、それも煩わしくなって、口をつぐむ。再び口を開けるときには、言葉ではなく煙がもくもくと出る。
彼女にとって、思うようにいかない仕事や人間関係のストレスを、風に乗せて吐き出してしまう方が、簡単だったのだろう。
「代わりに、チョコレートを食べてみたら」
と提案をしたことがある。
彼女が苦しそうに咳き込んでいたから。
「あなたらしい発言ね。やってみたいわ」
と言って、
ふたりでいる夜は決まって、ちょとした甘いお菓子やフルーツを食べながら、時間を過ごした。
彼女の家にきて、2週間が過ぎた。
居心地が良かったのと、ずっと居たらいいわ、という彼女の言葉に甘えてズルズルと居座ってしまった。
さすがにね、とあわてて本腰をいれ、
ようやくいいところが決まった。
彼女の家のように広くて緑がある閑静な場所ではない。私の希望とは違う、駅に近い賑やかなエリア。でも仕方ない、生きるためだから。
そして、彼女の家を出た。
新しい家。
大通りから一本入る場所。思ったよりうるさくない。家の中に入れば、ずっと静かだ。そのうえ、最上階で天窓付き。そこからは渡り鳥がすいすいと空を泳ぐのが見えた。
あ、この家いいな、と思った。
しばらくは、生活に忙しくしていて
彼女と会うことも、メッセージの頻度も少しずつ減っていった。
数ヶ月後、その地を離れることになり、
彼女に連絡を取った。
「家に遊びに来て。」
と返信が来た。
またあの時と同じように時間を過ごせたらと思った。
おしゃべりしたり、一緒に料理をしたり、チョコレートを食べたりして。
「久しぶり」
大きな笑顔ではない。
目と口角でさりげなく笑う、彼女の笑顔。
変わらない表情に、ぱっと心が明るくなった。
持ち寄った料理と、キッチンで簡単なサラダを準備する。それらをいただきながら、会えなかったそれぞれの日々を交換する。
食後は、温かいハーブティーとチョコレート。
「私はいいわ」
と言って、ふっと席を立って、窓際の定位置に移動をする。
窓を開けて、体を揺らして、煙をふかす。
そして、あのセリフをいう。
「夜に吸うタバコが好きなの」
その瞬間、初めて出会った日のことを思い出した。ひとりでいても大勢でいても、急に物思いに耽り出すような、彼女のことを。
きっと彼女にとって、夜のタバコは自分を見つめるたいせつな時間なのだろう。
それは、健康的なハーブティーでも、かの有名なチョコレートにも代われない、こだわりが詰まっている。
煙を外に逃がす、繊細な手先を見届けながら、
私はひとり、甘い一粒とあたたかい飲み物で、この瞬間を、体内に流し込んだ。