ブログという名のラブソング
コロナめ…。2月の苗場から季節がいくつもすぎた。正確には寒い、寒い極寒が過ぎて、梅が咲いて桃が咲いてもツアーが再開せず、桜が風に消えて、ミモザに雪が積もって、この世の儚さを思い、ツツジが雨に溶けて今、我が家では紫陽花が咲いている。
悲しいこともたくさんあったけど、唯一良かったのはアーティストの素顔が見られる機会を得たことだ。星野源の「うちで踊ろう」では、楽しみを作る人の気概と美しさを見た。喜びの星に生まれたおげんさんに、むりむり仕事で外へ出るときに勇気をもらったし、先日のライムスの飲ミーティング。Mummy-Dの頭の中が最高に孤独で、早稲田の男は全くもって可愛い。という確信を得た。
コロナ禍でライブや舞台、その他さまざまな楽しみが無くなった。私の周りには幸いにも感染した人はいなかったけれど、遠く離れた感染者のフォローをするために、何もかも途中になった仕事を強引に引き継いだりした。外に出ることもできず、ただ小さな机に向かってカタカタとタイプしたり、小さな画面に小さく映るいろんな人と話をして、なんとか何かを前にすすめたりした。
春。ゴスペラーズのツアーが突然終わってしまった。本当なら夏まで続いたツアー。予想はしていたけれど、本当に悲しかった。一度も見られなかった人のことを思うと、どんな言葉もかけられない。とても素晴らしい舞台だった。
そんな中、酒井さんのおしゃべり憂さ晴らしが始まった。ライブがあるはずだった日に、暇人同志憂さ晴らしをしましょう。悲しいはずの思い出が、酒井さんのおしゃべりで楽しい思い出に更新されていく。
そして、毎週土曜日に5人のトークライブが始まった。ネットワークを介して、歌って笑う5人の姿。なんだか、何を話すとか回線が切れたとかそういうのはどうでも良くて、5人で集まっているという事実がシンプルに嬉しい。それぞれの役割をそれぞれが担う。そういうキラーパスやスルーパスが通りまくる試合を見ているようで、実は事故が多い方が見どころが多いように感じている。
横になって、ツアーの終わりを告げるリーダ村上てつや。
生涯忘れることの無い、絶妙な抜け感にすくわれた。
そして、平日。毎日更新されるブログは、5人だからできる輪番制のお仕事だ。見られるのはファンだけというリッチコンテンツには、美味しいレシピや好きな音楽、ペットの話に、これからのこと。5人5様の書きぶりに、毎日、毎日ニコニコと笑う瞬間ができた。
歌手が日記を書くと、エッセイストや作家、もちろんライターや新聞記者とは書き方が違うように思う。それは私がファンだからなのかもしれないけれど、どの文章を読んでも「僕は元気で過ごしています。君はどうですか?また会える日まで、元気で楽しく過ごそうね。待ってて、俺らも待ってるよ」という、遠く離れて過ごす恋人に書くラブソングのようだと感じている。
ライブも無くなって、おうちにずっといる表現型の芸術家が5人。それは辛いだろうと想像に難くない。だけど、「元気にしてるよ」と言われると、自分も元気でいようと思うから不思議だ。
中でも、こればかりは出来が違う。
最年少の日記に毎回胸を打たれる。
詩人は詳らかにしない。詳しく書かない。
彼らの仕事は相手の世界観にゆだねて、たっぷりと余白を与えて作品を世に放つこと。その大好物の詩人が、余白を埋めて書いてくる圧倒的な情報量に本当に熱を出してしまった。
ダメだと誰かに言いたい。あれはダメだ。
まず何がダメかと言うと「もっと書きたい」と毎回、同じ序章を枕にもってくるところがダメだ。だって終わりが分かっているのにそういうこと書くから。
ダメ。本当にダメ。
書いてる内容は心からダメ。辛い。もっと適当に書いてくれたら気楽に読めるのに。
ご本人がラジオなんかで声に出したことが無いような、小難しい言葉を選ばないのもダメ。絶対ダメなのは、句読点の位置がダメ。歌ってる時のブレス位置と同じように絶対位置へ素敵に置くところが本当に辛い。ダメ。禁止。
難しい漢字を使わないから、滞りなく優さんの声で読めるところもダメ。
目で追うだけで、声が聞こえるようになるのがダメ、絶対…。ダメ。本当ダメ……。
特に5月26日の日記がすごくダメ。先生にいただいたお手紙がとびきりダメだ。
「君は何度も仲間ために歌っていましたね。」
今も、そしてこれからも。飛び切り難しいハーモニーを華やかに、繊細に狭い狭い音の隙間を縫うように歌う人へ恩師が贈る言葉。
何度も仲間のために歌う人。
練習を欠かさず、誰よりもリハ嫌いだと放言しながら間違わない人。
それはもう、ずっと昔から変わらない仕事というより、生業への態度だったんだろう。
何度も何度も。
時に笑顔で、時に真顔で。自分のためじゃなくて、
誰かのために。
はーーーダメだー。
あの人、ほんとダメな人。
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