「時をかける少女」を見た高校生がもう一度、自分自身を見つめてみる。
こんにちは。
Twitterでイラストやアニメーションを描いているミドリマメ科と申します。
今現在、私は日本の高校生です。
特に悩み事もなく暮らしています(身長と進路は悩みかもしれません)でも「時をかける少女」を見て何か自分の中にある今まで見えなかったこと。それか知らないふりをしていたものを突きつけられた気がします。
今回はそれについて書いていきたいと思います。
内容上ネタバレが含まれているのでここから先はご注意ください。
それと抽象的な表現や記述が多くなります。申し訳ありません。
時をかける少女を見た
ふと「時をかける少女」を録画していたのを思い出して見たのがこの文章のきっかけです。私はアニメが好きだということと「時をかける少女」のキャッチコピー(待ってられない 未来がある)が本当に好きだということもあっていつかは見たいと思っていました。そしてついに見ることができたのです。シリアスな場面だけでは無く笑える場面もあり予想を遥かに飛び越えて面白かったです。しかしストーリーが終盤なるにつれて感情というより心、言葉にはできないけれど自分の中に渦巻く何かが表面化している感じがしたのです。
私は「それ」がどうしても頭から心から、記憶から消え去ることができずにいました。言葉にできない事をどうにかして言葉にしたい。言葉として生かしておきたいと思ったのです。
いま、考えてみるとそれは千明と真琴の叶えられない恋について、千明の最後のセリフ「未来で待ってる」という言葉の儚い希望と圧倒的な現実。それらであるのかもしれません。しかしそれは私の中の心を守っているまるでプロテクトソフトウェアのようなものであって、もっとちゃんと自分と向き合うと「それ」は「高校生活」へ私が求めていたそのものやそれらを思い出す年齢になることへの焦りであるのだと思い知ったのです。ここでは恋だとか未来だとかはそれらを感情へ伝える修飾語の様なものであるのです。
つまり、まとめてしまえば、実際にこころに響いたのは「青春をしている高校生」であるという事です。
記憶できなかった記憶。
私は多分、近い未来でコロナ世代と呼ばれる年齢です。コロナウイルスは私が中学3年の頃に流行し始め、学校では全員が顔の下半分を隠した状態になりました。顔で人物を見分けている私にとってはかなりの打撃でした。そもそも緊急事態宣言による休校措置で学校に行くことができなくなってしまいました。
それでも教育活動を一切遮断する訳にもいかないので学校に行けない代わりに課題が郵送されてきます。茶封筒2cmの厚さぐらい。
それを解く。それだけです。
まるで学校という一種のミックスジュースから勉強だけを抽出して飲まされているようなものでした。(苦い..)
もちろん学校、学生の本分は勉強です。しかし友達との会話や先生との交流など学校特有の雰囲気のために通うという意味もあると思います。
ですから休校措置が解除されて久しぶりに学校に行った時はとても嬉しく、、とはならず。
不思議と緊張感がありました。それがコロナウイルスへの恐怖からくるものなのか、または大人数の目線があるという恐怖からくるのかはもう知る由もありませんが例えるならば新学期のクラス替えのような気持ちです。
それからもコロナウイルスは猛威をふるい、中学の修学旅行は中止(その後に先生方が近くの遊園地に行くプランを立てて頂けましたがそれも中止になってしまいました)、高校生になってもいくつかの行事が中止または規模を縮小せざるを得ない状況へと追い込まれました。授業がオンラインで行われることもありました。しかし学校側も慣れていないので、授業の時間になっても先生が参加していなかったり画質や音質が良くなかったり。
でも悪いことばかりではなくて授業時間以外の時に友達とオンラインで話したり、友達とLINEで会話しながら授業を受けることもできました。(本当はダメです)
登校ができるようになっても昼食の時間は透明のプラスチックの仕切りを机にして黙って自席で食べなれけばなりません。その時だけは透明のプラスチックが重いコンクリートの壁に見えました。(私は一人で食べるのが好きなのですが、会話が無いというのは寂しかったです。)
「時をかける少女」を見たのはこの頃でした。
映画の中の世界は青く輝く空と鮮やかな学生生活。今、私がいる世界とは少し違った世界だったのを覚えています。
友達とキャッチボールをする、友達とカラオケに行く。信じられないような恋をする。いわゆる高校生らしいイベントです。でも、それを当時はすることができませんでした。そもそも登校することすらもできなかったのですから。
私はキャッチボールが好きな訳でも、カラオケが好きな訳でもありません。でもそれらはきっと、良かった記憶として私に保存されるのです。
私たちは未来に行くことはできても過去に戻ることはできません。唯一戻る方法は「記憶」だけです。
しかも「記憶」は誰もが持っている訳ではありません。私が持っている記憶を彼は持っていないかもしれないし、あの人の持っている記憶を私は持っていない。さらに「記憶」はいつか溶けて見えなくなってしまう。記憶の抽象化はグラデーションのように進むから知らないうちに消えてしまうのです。
それでも私は「高校生」という記憶を持っていたいのです。たとえそれがいつか消えて記憶に空白ができることが分かっていたとしても。
幸いなことにワクチン接種などによって段々と規制が緩和されていき、旅先の変更はありましたが高校の修学旅行は実施することができました。(カラオケにも行けましたよ!恋はしてませんが)
私は記憶力が良くないので、すでにその時の記憶は曖昧になってきています。でも、大人になって、歳をとってもきっと、楽しかった。という記憶は残っているはずです。
あるはずだった青春に、私たちは触れることができませんでした。でも、私たちのような特別で唯一の青春があっても良いですよね。
自分を見つめてみる
大人の皆さんは「今を楽しみなさい」と言います。しかし同時に「将来を考えなさい」とも言います。
今も大事だし将来も大事。
大変な矛盾です。
毎日はいつも同じように見えるし映画みたいなことなんて起こらない。未来なんてわからない。
なんて退屈なんだ。
そう思っていたら、今は「あの時」を後悔してる。
こうすれば良かった。ああすれば良かった。なんて。
退屈だった「あの時」が今は輝いて見える。あの時努力しておけば良かった。
これはどうしたって避けられない後悔なのだと思います。あの時思い描いていた未来に努力したからといって自分がいられるなんて確証はないのだから。
そうは言ってもきっと努力は何か良い思い出になります。(何も努力していない私が書くのもおかしな話ですが)何もしなくても明日は来るし未来だってすぐに来ます。だから自分が未来でしたいことを考えるのはしたほうがいいかもしれないですね。
それに向かって努力する→思い出ができる。
最高です!
でも思い詰めすぎないでください、ゆっくり考えれば良いし少しは運に任せたってバチは当たらないはずです。
少し話が逸れてしまいました。
正直になると私は未来が怖いです。なりたい私になれないまま一生を終えるかもしれない。死ぬ瞬間に後悔するかもしれません。でも未来を覗き見ることは出来ないのですから今は理想に向かって頑張るしかありません。
つまりは!今に全力になればきっと、未来では良い思い出になってるはず!!ということです。
最後に自己紹介をして終わりにさせていただきます。
私は高校3年生です。英語が好きで数学が苦手。
いつも一緒に帰ったり遊んだりする友達がいます。
部活は楽しい。授業は少し難しい。
悩みはまだ知らない私の未来について。
進路だったり、将来の仕事のこと。
これからどうなるのか不安な時もあるけれど
未来へ、私は走ります。
読みづらい文章ですが読んでくださりありがとうございました。