娘との会話から学ぶこと
娘が高校生になってから、作った弁当をフェイスブックにアップし始めて、今日が174日め。
写真に添えたことばが今朝はとめどなく、その続きを含めて今日のnoteに書きます。
お昼ごはんのメニューは、学校にレンジがあるならと、冷凍のライスバーガーを。
ミニトマトを洗って水気を取ったり、林檎の皮を剥いて塩水につけたり、車を運転するまでに身体をしっかり目覚めさせる時間をとっています。
手を動かしながら考えごとをして、送りの車の中で娘と話すのが楽しみな今日この頃。
地球を何周もできるくらいぐるぐる考えて、何なら宇宙にまで行って帰って来るくらい考えて、娘に話してみたら実は答えは凄くシンプルだったり。
上手く行かないことをつい人や社会のせいにしたくなるけど、その心こそが魂の輝きを曇らせてしまうよね。
長くなりそうだからと、今朝の投稿はここまで。
その続き。
最近、人が人を思いやる尊さを、娘の中に見いだす出来事が度々起きました。この、相手のことを考えて、自分が損をしても相手を信じようとする姿勢。見ていて辛くなるときがあります。けれど、私もつい自分をないがしろにして相手の表面的なことばを優先させて失敗することがあるから、娘のやるせない気持が理解できます。
私にとっての失敗というのは具体的に、自分が心配りをしたことに相手が気づかぬまま、私の時間や手間を軽んじられた、と、傷つく時があること。
本人に悪気はないのだから、自分にコミュニケーションの取り方や物事の捉え方を工夫するしかありません。
「何に気付けばいいのかな?」そんな視点でいろんなことをぐるぐる考えています。
結局のところ、どれだけ考え尽くしても人を変えることは無理な話です。そうではなくて、ぐるぐる止まらない思考の中に、自分のやりたい気持ちが隠れていることがあるので、それをしっかり見つめることが大切です。ここと向き合いたくないと、思考は止まらなくなっちゃいます。
娘の短いひとことにハッとして、大人ってどうしてこうも物事を複雑にするのだろう、と、自分で自分に呆れちゃう。というより、人に影響を受けて困ったな~と吞み込まれていたことさえも、自分が命への信頼が薄いということなんだな~と気づかされたのでした。
子育てって、子どもに教えなきゃとか思ってる大人が多いけど、違います。子どもの命に寄り添っていれば、自然とイキイキ成長していくもの。
幼少期の心の傷を今の自分に重ね合わせてメランコリックになる大人って実は多いです。子育てのこととかを政策でいろいろやってもいまいちパッとしないのは、そんな大人たちの心の傷が、今を生きる子どもたちへ手を差し伸べるよりも、子どもの頃に傷ついた心をどうにかしてって、心が訴えているのではないでしょうか。子ども時代の心が取り残されてしまっている大人が多いと、たった今、目の前の子どものことがちゃんと見られなくなるせいではないのかな~、なんて仮説を立ててみたり。
そうやって、いろんな視座で物事を見て、誰かとそのことについて語らうと、見える世界が変わります。
今朝は娘がその相手になってくれて、成長に喜びを感じました。