僕はずっと雰囲気でサッカーを観ている
これでも僕は20年間、ずっとサッカーを観ている。
映像でも観る。スタジアムにも行く。僕のライフワークだ。
さらにいえば、ウイイレやFIFAやサカつくやFootball Managerといったサッカーゲームにも、僕は多くの時間を費やしている。
しかし、だ。
お恥ずかしい話なのだが、これだけ長年観ているのにもかかわらず、僕はサッカーの戦術的な話が、未だに全然わからない。サッカーを語るうえでの素養が、まったく身についていない。
かれこれ20年間、僕はずっと雰囲気でサッカーを観ている。
たとえば、僕が愛する東京ヴェルディの試合を現地で観戦したとしよう。
入場前の待機列に並びながら、本日のメンバーをチェックする。お、松橋優安がスタメンだ。彼はいろいろなポジションがこなせる。今日の試合、彼はどこで起用されるんだろう。
スタジアムに入り、ゴール裏の適当な席につく。隣にいるシルバーフレームのメガネをかけた賢そうなお兄さんが「試合前の練習を見るに、今日の優安は右サイド起用だな」なんて話している。僕は、練習を見るのもそこそこに、選手のチャントを唄っている。
試合が始まる。ほんとに松橋は右サイドを走り回っている。隣の賢そうなお兄さんは、なぜ練習を見ただけで起用されるポジションがわかるのか、僕にはわからない。
売り出し中のアタッカー山見大登が、相手の最終ラインにプレスをかけにいく。
「今日も山見の顔は四角いな」と僕は思う。誰かが「夏バテと無縁そうなふっくらとした顔だ」なんてツイッターで言ってたな、だから今日みたいな暑い日でもあんなに走れるんだな、と僕は納得してニコニコする。
バカなことを思い浮かべている僕の横で、隣のお兄さんが「山見はプレスのかけ方が本当にうまくなった、パスコースを正しく切れている」と褒めている。どのパスコースをどう切るのが正解なのか、彼のプレスのかけ方が今までどう間違っていたのか、僕は見当もつかないのだけど、顔は四角いままの山見もどうやら日々成長しているんだなということがわかって、なんだか嬉しくなる。
戦術に関する用語も、よくわからない。
隣のお兄さんが「翁長がうまく相手のサイドバックをピン留めしているねえ」なんて満足げに呟いている。へえ、ピン留め。具体的に翁長聖が何をしているのかはよくわからないのだが、僕の頭の中に、ぼんやりとこれが浮かぶ。
センターバックの林尚輝が、ドリブルでボールを持ち出す。「お!コンドゥクシオンだ!!」と、僕は叫ぶ。なんとなく必殺技っぽくてかっこいいからという理由だけで、僕はこの単語を覚えている。
パスを受けた森田晃樹が、ピッチの中央でひらひらと舞うようにボールをキープし、時間を作る。「おお、これはいいパウザ!」と、また僕は叫ぶ。なんとなくちょっと高級なサイゼリヤみたいな語感だという理由だけで、僕はこの単語を覚えている。
隣のお兄さんが、なんとなく横目でこちらを睨んでいる気がする。もしかしたら僕はシチュエーションにそぐわない単語の使い方をしていて、彼はそれにイラついているのかもしれない。もしくは、コンドゥクシオンやパウザがなぜ効果的なのかろくに説明できない人間が、単語だけ叫んでも意味がないのだ、と彼は言いたいのかもしれない。
周りのサポーターが一斉に怒り出した。どうやら、不可解な判定があったらしい。隣のお兄さんも「逆だろ!向こうのファウルだろう!」と怒っている。なので、僕もとりあえず「へいへい、頼むぜ審判」なんて言ってみるのだけど、正直どっちのファウルだったのか、僕は目が悪いのでよく見えていなかった。隣のお兄さんはともかく、他のみんなも本当に見えていたのか、僕は疑問に思うけど、言わない。それに、あんなにいい人そうな顔をしたコロスケがファウルをするわけがないので、たぶんあれは相手のファウルだったんだろう、と決めつける。あとは、疑惑の判定であれば、いえぽんが有料noteにでも書くだろうから、僕はそれを読んで、見解を引用して、薄っぺらくニワカ知識をひけらかせればそれでいいのだ。
ヴェルディに決定機が訪れる。抜け出そうとした木村勇大を、相手のディフェンダーが手を使って止める。主審がすぐさま駆け寄り、彼にレッドカードを提示する。隣のお兄さんが「DOGSOだ!三重罰!!」と叫んでいる。どうでもいいが、三重罰。恐ろしい日本語である。僕だって「ご飯を残すと罰が当たるわよ」と母から口酸っぱく言われて育ったけど、おそらく僕以上にご飯をしっかり残さず食べて、立派なフィジカルを手に入れたあのディフェンダーの彼が、なぜこんな快晴のサッカー日和に、三重にも罰をくらわなければいけないのだろう。世の中、どこか間違っている。
後半アディショナルタイム、なんと最後の最後で木村勇大が劇的な決勝ゴールを決める。
さっき僕を少し睨んでた隣のお兄さんも、これ以上ない歓喜の瞬間に、ニッコニコでハイタッチを求めてくる。「相手のゴールキーパーが、クロスを警戒して早めに倒れたのを見て、勇大は冷静に空いたニア上に蹴り込んだね」と、彼は興奮して早口でまくしたてる。あの一瞬でここまで状況をよく見てる彼はすごいし、とはいえ勇大はそこまで考えてたかなあ、なんとなく思いっきりシュートを蹴り込んだら入ったふうにも見えたけどなあ、などと思いながら、僕も笑顔でハイタッチを返す。
これは言い訳なのだが、ピッチ上で起きている事象をロジカルに説明するには、サッカーに対する探求心や、実際のプレー経験に加えて、目まぐるしく変わる状況を正確に脳に伝達できる動体視力だったりとか、ボールホルダー以外の動きを目端で捉えられる視野の広さだったりとか、そういうものも求められる気がする。早い話、向き・不向きがどうしてもあり、僕はどうにも向いていないタイプだと思う。
ただ、隣のお兄さんも、僕も、ゴールが決まれば本能的に喜び、勝てば楽しくラインダンスをして、負けたらふて腐れて家路につく、そういう感情面における娯楽性は平等なのかもしれない。
サッカー観戦は、理屈抜きで熱く楽しくなれる行為である。もちろん、そこには常に“理”があり、それを追い求めるのも間違いなくサッカーの楽しみ方だが、そんな知的好奇心のない僕のような人間でも、20年観戦を続けられる懐の深いスポーツ、それがサッカーなのかもしれない。
しかし、こんなふうに雰囲気だけでサッカーを観ている僕ですら、ちょっとしたお涙ちょうだいの文章を書けるがゆえに、偉そうにヴェルディに関するブログを綴り、一丁前にサッカーを語っている。
また言い訳をさせてもらうけど、僕はあくまで素人ブロガーだし、自分の文に責任を取る必要なんて、ない。そう、僕にサッカーに関する深い知識と素養があったなら、それを責任の元手として、世間の無知を嗤い、ダシにし、質問箱でチップをもらう行為だってするかもしれないけど、僕は雰囲気でサッカーを観ている人間だからそういうことはできないし、その代わり多少適当なことを書いたって、他人の受け売りのような言葉を吐いたって、なんの問題もないのだ。だって、サッカーはそういう人間をも受け入れてくれる、懐の深いスポーツだから。
そして、あの隣のお兄さんは、それこそサッカーに関する深い素養と知見を持った人間しか存在しないサッカーメディアの人にでもなるか、もしくはSNSでサッカーインフルエンサーとしてどんどんお金を稼いでいくべきだと、思うのだ。
ちなみに、この“隣のお兄さん”、一応頭の中に思い浮かべた実在の人間がいて、それは某サッカーメディアを失意のうちに退職した俺の友人だったりする