冬至を区切りに
数年前から冬至に区切りを感じるようになった。
何か特別にやることを決めているわけではなく、
年によって、気が向いたらかぼちゃと柚子を生活にとりいれるくらい。
今年もまた区切りにしたい。と思ったので、書き残しておこう。
自分のやること・テンポと周りの流れ・テンポの違いに対応できなかった、折り合いをつけられなかったのだと思う。
いや、できるよ。やってきたじゃないと言う自分もいるけれど、
ずっとそのテンポではやっていけなかった。
もう、しょうがなかった。
一度流れを止めてみなければ、望まないところへ流されていく気がした。
流れを止める意志はあっても、流されていく毎日だった。
この決断を自分だけでは決めきれず、
人に背中を押して欲しかった、流れを止めて欲しかったのだと思う。
まずは小さなステップとして口にしてみた。
そうしたら、まわりの後押しが思いもよらぬ力強さと勢いだった。
「ありがとう」より、そう思っているなら早く言って!と思ってしまった。
なんとも虫がよすぎる
物理的にも精神的にもこんがらがって、とっちらかっていた。
すっきりしたかった。
動線がいまいちと感じながらも、吟味することなく
とりあえずの暮らしが定着しつつある部屋
使い勝手、居心地をもっとよくしたいのに、
どうしたいのか、何が必要なのか、腰を据えてイメージをふくらませる時間も気力もなかった。あるいはとろうとしなかったのか。
まず仕事ありきの頭はどうにもならならず、とにかく追われるかんじ
視野が狭くなっていた
分かっているのに止められなかった
思い描く快調とは異なり、あれこれ整わないこともたびたび。
倒れるまでには至らず、なんとか耐えつつ、小さくこけながらもやってきたあちこちの不調は繋がっているのだ
生活ペースを落とさないと、どうにもならない
このくらいではまだまだ甘いでしょという段階だと、今でも思う
何がどう甘いのかはっきりしないし、誰かにそう言われたわけでもない
自分で自分をぎゅうぎゅうしている
不思議なのは、
「もうしんどいです。」と思っている自分もいるのに、
「まだ動けるでしょ?負荷を軽くしながらやっていれば、そのうち戻ってくるし、今までもそういうかんじだったじゃない。」
と言っている自分もいたこと。
どうしたいの?と聞かれたら「休みたい」だったのだから、
結論はそういうことなのです。
シンプルに考えられなかった
どうしてそうできなかったんだろう
なんでちょうどよく動けなかったんだろう
みんなはできているのに、自分にはできない
まだ大丈夫と思いながらも、半ば強引に流れを止めた
食べて寝て掃除して、散歩して本を読み空を眺める。
料理をして食べたいものを作り食べる
ここでもまた2人の自分がいた。
みんな働いていて、自分は遊んでいる、楽をしている、
やらなければならないことをやっていない
こんな時間はなかなかない、せっかくだから大手を振ってよい、
行きたいところへ行き、食べたいものを食べ、ゆっくり気ままにする
しばらくして、暮らしの骨組みみたいなものが見えてきた
骨組みだけでも十分忙しく、やることがある。
よく仕事までしているな、していたな。と感じた。
ほんと、よくやってるわ
自分は自分が思っているよりも、だいぶがんばっていたのかもしれない。
『最近嫌いな人がいてね、「あまえ」っていう人』という言葉をもらった
自分のことを指しているわけではない会話の流れだったのだけど、
あぁそれは私だな。と思った。
もうひとつ、『「がんばる」の下のゾーンでやればいいのだ』とも。
え?だいぶ小さいけれど?
がんばらないと、まわらないけど?
『それでも地球はまわる』とのこと。
そっちの「まわる」ね、まぁ、そうか。
身体を整え、ためになる言葉まで授けてくれる整体師さんです。
2023の冬至
海を見て、ドーナッツを食べ、なじみの整体に行き
帰り道、ゆず・かぼちゃ・れんこん・ぶりを買った
夜ごはんはぶりの幽庵焼きと焼きかぼちゃ