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「会得してみた」という言い回しの違和感

最近流れてくるおすすめnoteでよく見かけるようになった言い回しに「⚫︎⚫︎を会得してみた」というものがある。
この言い回しに私は激しい違和感を覚えるのである。

そもそも会得って何か?
辞書をまず引いてみる。

デジタル大辞泉 デジタル大辞泉
え‐とく〔ヱ‐〕【会得】
読み方:えとく
[名](スル)物事の意味を十分理解して自分のものとすること。「芸の奥義を—する」

難読語辞典 日外アソシエーツ株式会社
会得
読み方:エトク(etoku)
微妙でなかなか分かりにくい物事や難しい技芸をよく理解・習得して自分のものにすること

Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) 出典:Wiktionary
会得
出典:『Wiktionary』 (2021/10/06 09:10 UTC 版)
名詞
会 得(えとく)
あることの意味や内容を理解し、自分のものとすること。

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書 国語

…こんな感じ。
私の体感的にぴったり来るのは難読語辞典 日外アソシエーツ株式会社の

微妙でなかなか分かりにくい物事や難しい技芸をよく理解・習得して自分のものにすること

である。
デジタル大辞泉の用例のように「会得」というと私の感覚としては「奥義」だったり「秘術」「秘伝」だったり免許皆伝みたいなものである。
そもそも「会得」の「会」は『悟る』という意味合いだという。

「会得」では、この「さとる、理解する」といった意味が使われています。

「会得」の意味と使い方、類語「習得・体得」との違い、対義語、英語を例文付きで解説

本来は仏教の教えなど「物事の本質を十分に学んで得心する」ことを表す言葉で「悟る」や「通じる」に近しい意味合いです。
(略)
「知識や技術を十分に使いこなせるようになること」を意味しているので「極める」という意味合いも含まれています。

形としては成立していても未熟だったり理解が不十分だと「会得」とはいいません。

「会得」と「習得」の違いとは?分かりやすく解釈


以上のように「会得」という言葉には『容易には習得できない不断の努力を要するような究極の奥義』みたいなイメージが含まれていると私には感じられる。
そうするとその「究極の奥義を」「してみた」という食い合わせの悪さにまず唸ることになる。
「してみる」とは歌ってみたとか描いてみたとかの「試しにやってみた」感が強いと私は感じる。

「究極の奥義を試しにやってみて一発で会得してみた」
ラノベのタイトルかな?
まあでもなんか食い合わせが悪いと私は思う。

それから「自分」を主語にして「究極の奥義を会得してみた」と言うのは謙遜を尊ぶ日本人にはビタイチ馴染まない気もする。
無意識に使っててうっかり忘れがちだけど日本語は「主語が省ける」という特殊効果がある。
くだんのタイトルも同様である。
主語が省かれてるから本人も自覚しづらいと思うけど、主語を補うと以下のようにもなり得る。
「(私は)究極奥義を会得してみた」≒「ちょっと試しただけで究極奥義会得しちゃった俺様カッケー!!」
…と自分で他人に向かって言う人は一般人にはそう多いとは思えないのだけど。

いや、くだんのタイトルのnoterさんがそう発言してるって意味じゃなくて。
「会得」というボキャブラリーを選択することによってそう発言してるかのように見えかねない、という話をしてるのね。
そこが「会得してみた」じゃなくて「やってみた」「試してみた」「実行してみた」「勉強してみた」「練習してみた」なら引っかかりはまったく覚えないんだけど。

つまり、「会得」という言葉には
修練を積んだ末にある種の尊崇を集めるような偉業を成し得るほどの奥義や能力を獲得する
といった含みがあると私は感じるので「してみた」という軽〜いお試し感となんか合わないのである。
そして、自ら「究極奥義をお手軽に極めてみた」と自画自賛する(真実はそうでなくてもそう見えてしまう)人も日本人では多数派ではないよね、という話であった。

実のところはご本人様がどういった含みで「会得」を多用してるのかは図りかねるけど、そのシリーズのタイトルを見かけると以上の違和感を毎度もれなく持ってしまう私であった。


本文とは何の関係もない絵
この絵を描いた頃のnoteの内容と
明らかに合わなかったので
今まで持ち越してた


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