「会得してみた」という言い回しの違和感
最近流れてくるおすすめnoteでよく見かけるようになった言い回しに「⚫︎⚫︎を会得してみた」というものがある。
この言い回しに私は激しい違和感を覚えるのである。
そもそも会得って何か?
辞書をまず引いてみる。
…こんな感じ。
私の体感的にぴったり来るのは難読語辞典 日外アソシエーツ株式会社の
である。
デジタル大辞泉の用例のように「会得」というと私の感覚としては「奥義」だったり「秘術」「秘伝」だったり免許皆伝みたいなものである。
そもそも「会得」の「会」は『悟る』という意味合いだという。
以上のように「会得」という言葉には『容易には習得できない不断の努力を要するような究極の奥義』みたいなイメージが含まれていると私には感じられる。
そうするとその「究極の奥義を」「してみた」という食い合わせの悪さにまず唸ることになる。
「してみる」とは歌ってみたとか描いてみたとかの「試しにやってみた」感が強いと私は感じる。
「究極の奥義を試しにやってみて一発で会得してみた」
ラノベのタイトルかな?
まあでもなんか食い合わせが悪いと私は思う。
それから「自分」を主語にして「究極の奥義を会得してみた」と言うのは謙遜を尊ぶ日本人にはビタイチ馴染まない気もする。
無意識に使っててうっかり忘れがちだけど日本語は「主語が省ける」という特殊効果がある。
件のタイトルも同様である。
主語が省かれてるから本人も自覚しづらいと思うけど、主語を補うと以下のようにもなり得る。
「(私は)究極奥義を会得してみた」≒「ちょっと試しただけで究極奥義会得しちゃった俺様カッケー!!」
…と自分で他人に向かって言う人は一般人にはそう多いとは思えないのだけど。
いや、件のタイトルのnoterさんがそう発言してるって意味じゃなくて。
「会得」というボキャブラリーを選択することによってそう発言してるかのように見えかねない、という話をしてるのね。
そこが「会得してみた」じゃなくて「やってみた」「試してみた」「実行してみた」「勉強してみた」「練習してみた」なら引っかかりはまったく覚えないんだけど。
つまり、「会得」という言葉には
修練を積んだ末にある種の尊崇を集めるような偉業を成し得るほどの奥義や能力を獲得する
といった含みがあると私は感じるので「してみた」という軽〜いお試し感となんか合わないのである。
そして、自ら「究極奥義をお手軽に極めてみた」と自画自賛する(真実はそうでなくてもそう見えてしまう)人も日本人では多数派ではないよね、という話であった。
実のところはご本人様がどういった含みで「会得」を多用してるのかは図りかねるけど、そのシリーズのタイトルを見かけると以上の違和感を毎度もれなく持ってしまう私であった。