【AI生成師でも手描き派でも】創作者もどきと真の創作者の違い
以下は敬称略です。
前回AI生成画像で手描き絵に追いついていない(と思われる)表現について書いた。
AI生成画は基本テキストによるプロンプト指示範囲内でのガチャである。
そこから画像に復号化する現状では無理からぬことではあるだろう。
その流れから、真贋を見分けられる観察眼がないと自己欺瞞という落とし穴で頭打ちになることに触れた。
今回はこの落とし穴の話である。
とは言っても過去noteで散々書いたことと変わりはない。
しかし私的には非常に重要な内容なので己の実力を勘違いする落とし穴について再度書くことにする。
この落とし穴にはまると、真の創作者に対してルサンチマンを拗らせることになる。
それは当人にとっても周囲にとっても幸せなことではないと思うからだ。
まず前提として未熟なもどきでもたくさんの他者の創作物に触れる機会が多々ある。
時には他者の作品に形にも言葉にもならぬ何らかの違和感や差異を感じることもあるだろう。
その他者の創作物に感じる「何らかの違和感や差異」とは自らでは表現し得ない「精妙な表現力」である。
つまり、前回書いた「らしさを演出する『細やかな演技力』や『人間の感情への洞察力』から生まれた【微妙かつ精妙な味付け】」のことである。
本当に上達したい人は未知の「何らかの違和感や差異」を深掘りする。
一見では解析できない「何か」を知覚できるのはたまたまなのか。
再現性はあるのか。
再現性があるとしたら同一作家でいつも感じるのか。
同一作家でも時折なのか。
違う作家ではどうなのか。
形には「ない」のに「(何かが)ある」と感じる作品と、それ以外の作品の違いとは何なのか。
「何らかの違和感や差異」の正体が何であるのか。
こうやってまだ何者でもないもどきが「(見えないが感知できる)何か」を追求するのは、もどきからの脱皮準備なのである。
しかし、まだ何者でもないもどきが「(何かが)ある」絵師に対しルサンチマンを拗らせる場合もあるのだ。
それは「(何かが)ある」絵師に「まだ(何かを)会得してない」自分を自覚させられそうになった時に起きる。
己に「(何かが)ない」(=劣る、と拗らせもどきは早合点する)と感じた現実を認めたくないため、様々な抵抗や対抗策を弄するのだ。
ここが落とし穴の始まりである。
例えば、他者にはわからないように相手の作品を一部パクったり、対抗意識丸出しで相手に似た傾向の作品をドヤ顔で出す。
さらにドヤ顔で出した自分の創作もどきをお仲間に褒めさせて、自らの方が上であるとマウントを取る。
相手の作品に「(何かが)ある」としても一部でもパクれば自分にも再現できるのではという皮算用と考えられる。
しかしビタイチ相手を凌駕できてないと感じるや否やお仲間と褒め合い合戦を始める。
合戦の最中の褒められカウントアップで自己の戦力不足を補えると思ってるようだ。
それでもまだ自らの方が何か相手に負けているような気がすると、今度は相手を直接攻撃し始める。
己の視界から相手が存在しなくなれば、(己の歪んだ視野における)全世界では己が一番の創作者になれると信じているからである。
相手の存在を消すとは、その世界から相手を抹殺してしまう、ということである。
つまり「自己認識の歪んだ拗らせもどきは真の創作者を抹殺する」のである。
仮にそれに成功したとしても、拗らせもどきに真の表現力が身についたわけではない。
だから相手を抹殺することによって事なきを得たと思い込んでいる拗らせもどきは「永遠にもどきのまま」である。
そして次の真の創作者が現れたらまた同じことを繰り返して自己認識の歪みを強化する。
それが永遠に創作者になれない拗らせもどきの姿である。
しかも一時喉元を過ぎたとしても次に自らを脅かす真の創作者がいつ現れるかはわからない。
なので拗らせもどきはいつも他者の作品にピリついている。
そして多少の実力差なら相手の作品に適当な理由をつけて貶めようとする。
つまり他者の作品を自己より下であると(事実と違おうとも)確認するため、値踏みするために見、事実と違っても相手をこき下ろす。
だから他者に敬意がない。
なので拗らせもどきによる作品もどきも精神も、成長することができない。
本当はどこかの時点で他者の実力を認めて真摯に己の表現力を磨く方に転ずる方がいいのだが。
そうすればそこから段違いにステップアップできる。
しかし拗らせもどきは現状の自己以上の実力者を認めたくない。
そのため相手を物理的に視界から消す(相手にある種の殺意のようなものを持つ)ことで精神の平衡を保とうとする。
拗らせもどきには技術の積み重ねがないから真の創作者が積み重ね且つ圧縮した技術の質量を理解できない。
その質量を理解できるだけの技術的バッファのキャパシティがないからだ。
要はキャパオーバー状態である。
つまりExcelで言えば列幅狭とかデータ型がバイト型なのが拗らせもどきである。
一方創作者は浮動小数点数型や十進型で大きな値や小数点をすいすい扱える広い列幅である。
ひどい場合は拗らせもどきは自分が文字列型で入力してることも気づかず「計算できない!おかしい!ExcelかPCが壊れてる!」と他責する。
いずれにせよ、拗らせもどきは技術的バッファが極小なので他人の作品を見てもすぐバッファオーバーフローを起こす。
そのバッファオーバーフローをnullと勘違いして「バイト型の自分の方が数字が大きいもんね!」と積極的に勘違いするのだ。
ごくごく少数だとは思うが、AI生成師の中にも拗らせルサンチマン創作者もどきはいることだろう。
その中には手描き絵師にルサンチマンを拗らせてる手合いもいるのではないか。
拗らせてなければ最初から自分でも手描きすることでもある程度は満足すると考えられるからだ。
ある程度満足していて向上心の方向がAI生成に向かう人もいるだろう。
向上心の方向が手描きの人もまたあるだろう。
ただ手描き絵師として全く満足できず拗らせたタイプがAIに飛びつくとどうなるか。
そもそも拗らせもどきの技術的バッファが極小であることはおよそ疑いようがない。
なので生成画像の欠点に気づかない。
故にその欠点も直せない。
結果、手描き絵師を見返せると思ってAI画像生成師に転じても結局もどきから抜け出せない。
…というパターンも想定できる。
結局、手描きであろうとAI生成だろうと最初はもどきから創作の芽が育まれる。
その途上で真に創作者にステップアップするために必要なものは前回も書いた。
「らしさを演出する『細やかな演技力』や『人間の感情への洞察力』から生まれた【微妙かつ精妙な味付け】に気がつく観察眼」である。
次に他の創作者への敬意を持つことが必要になる。
なんとなれば、他の創作者への敬意を持たないと己の技術的バッファが大きくならないからである。
技術的バッファは他者を認めようとしない心理状態では広がらない。
自分の極小知見以外を受け付けたくない心理状態だからである(本人は己の知見極小の自覚なし)。
頑なに列幅3桁バイト型のバッファで物事を判断し、オーバーフローをnullと勘違いする。
それではキャパオーバーに陥るのも当然である。
逆に他者の実力を素直に認められた時、初めてその技術も受け入れられるようになる。
すると列幅は広がり、データ型も浮動小数点数型や十進型にステップアップする。
ただAIは今のところ現時点の私の狭い知見に限れば、前回指摘した技術の不足を克服できていないようだ。
そして仮にAI生成技術の進歩でこの点が克服されたとする。
しかしAI生成師の認識がバイト型極小キャパシティのままでは変わらず伸び悩むことだろう。
裏返すと、手描きだろうとAI生成だろうと結局肝要は変わらない。
まず
「観察眼を育てる=焦りすぎない」(焦る心は観察眼を閉ざす)
次に
「自己認識と技術のバッファのキャパを広げる= 他の創作者へのリスペクトを持つ」(否定する心はキャパも狭める)
それができれば創作者へのステップアップが望めると思う。
人間である以上嫉妬心とは無縁ではいられない。
漫画の神様手塚治虫もドえらい嫉妬深さで有名である。
漫画の神様も相手漫画家にかなり酷いことを言ったりやったりしてしまっている。
しかし最終的には相手に謝り、相手のどこが素晴らしいのかを伝えたりもしたようである。
真偽の程はわからないが、自らの創作意欲を鼓舞するためにあえて自分の嫉妬心を利用したという説もある。
嫉妬心はなくせなくても謝ること、相手の素晴らしさを認めることはできる。
ルサンチマン拗らせもどきにはそれができない。
だから創作者として自らを鼓舞することもできない。
相手の素晴らしさを認める度量(キャパシティ)は手描き絵師だろうとAI生成師だろうと必要だろう。
例えAI画像生成技術が進歩しようとも。
それができないと拗らせもどきはもどきのまま、ルサンチマン人生のまま終わる………
………可能性がある、と私は思うのだ。
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