最近相方に教えてもらって色々考えさせられたnoteを読んで思い出したこと。 〜あるはずのない何かと同人誌即売会におけるエンガチョを巡るミステリー〜(2)

前回地元でエンガチョされたあと大都会()で雲上人と出会ったが決裂した話の続き。


そして売れるはずのない本と資料を見ずに描いてはいけないタブーとエンガチョの3つの謎だけが残った

雲上人でもポージングを見て描くのが当たり前だったのか、というのは察しがついた。
ただ、なぜそこまで激昂されなければならなかったのかはよくわからない。
一桁冊数のみとは言え、ショボショボで売れる要素が120%ない貧相なコピー本が売れることがAさんのプライドに触ったのか。
完全に自分より格下のヘボ絵描きが資料なしで何も見ないで(たとえヘボデッサンであろうと)ある程度人体を描けること自体がプライドに触ったのか。
真実はわからない。

しかし、どうやら私の描く絵は(少なくとも3つの市全てで最終的にエンガチョされるほどに)需要のない、いや、存在してはいけないもののようだった。
それは「ポージングを資料見ないで描く」というタブーのためなのか。
売れ線を狙わず黙々と自分の画欲に忠実に一切読者に媚びずに描くというタブーを犯したためなのか。

そもそも、なぜ私たちの貧相なコピー本は(少なくともどの地方でも最初のうちは)売れたのか?
そして何度目かにはエンガチョされるのか?

謎は深まるばかりだ。

その後、Aさんの活動ジャンルのブームも下火になり、私たちもその事件以降即売会に参加することもなくなり、Aさんとは勿論連絡は一切取ってないので、その後のことは全くわからない。
それから何年も経ってから、ふと思い立ってAさんのペンネームでネット検索してみたこともあったが、それからAさんが少なくとも同じサークル名、PNで同人活動を続けている様子はなかった。
まあ、サークル名、PNとジャンルを変えて活動してるだけかもしれないが。
しかしその当時それなりに有名な大手サークルだったようなので、ジャンル替えはしたとしてもサークル名とPNまで変えるものだろうか。

しかしプロになってはいないと思う。
アシスタント業もなかなか安定していなさそうではあったし、モチベーションが下がってきているようにも見えた。
何よりもある程度は資料なしで人体が描けないと漫画の生産効率が駄々下がるのでプロとしてはちょっと苦しいのではないだろうか。

何も足さない、何も引かない、何も狙わない、何も盛らない

実は私は半ば意識的に売れ筋を外して活動していた。
売れる要素を盛って売れたとしたら、それは「絵の実力で売れたのかどうかがわからなくなる」からだ。
私には自分の吐き出したい(描きたい)ものに忠実に描くことの方が、売れることより大事だったからだ。
そして描く以上は自分の絵の実力で見てもらいたいと思うのだ。
流行りのジャンル、流行りの絵柄、ウケる要素、などを計算して本当に自分の描きたいものではないものに擦り寄ってまで描くことは「私には絵の実力はありません、読者に媚びてでも売れたいんです」という宣言に思えたからだ。

それが本人の活動の真の目的ならそれはそれでいいと思う。私はそれをやらないというだけである。
実力じゃなくても売れ筋狙いで承認欲求を満たせればそれでよい、というのであればそれはそれで目的にかなっているのだから他人が文句を言う筋合いはないと思うからだ。

ただ、承認欲求が目的ではない人間を否定するのはご遠慮願いたい、とは思う。
売れ筋狙いをしなければ見てもらえない絵に、絵としての存在意義があるのかと問われれば、謎だと自分は思うけど、それはあくまで自分のスタンスでしかないので、他人が売れ筋狙いしようと私には関係はないから否定はしない。

ただ、それなら私の絵をストーキングするのはやめていただきたいなーとは思う。
(絵だけでなくリアルストーキングもされた。真夜中の無言電話とか。相手はそのためにイベント主催者になったのか?)
スタンスや目的や目指すゴールが違うのだから絵の出来が違っても現実を受け入れていただきたいと思う。
売れ筋要素てんこ盛りに盛ることで売れて嬉しいのであれば、盛らずに自分の絵の真の実力を試したいという奇特な人間を付け回す必然性はないのではないだろうか。
こっちは画欲と具象化したい脳内イメージに忠実に、かつできるだけフレッシュな状態で具現化するために絵の質を追求してるだけなのである。
そちらのやりたいこととは違うのだから同じ質を求められても筋違いだと思うのだ。

そもそも盛りは絵の質を高めるのか?

これは「絵の質」をどう定義するかにもよって変わるとは思うが、私自身は「参考資料もなく低コンディションであっても間違いなくその人が描ける最低限度の基礎画力があるか、または仮に画力が目立って高くなくてもリアルな情感を絵に込められる画力があれば質が高い」と考えている。
しかし「盛る」行為自体は何かを参考にしないとできないと思う。つまり、基礎画力のない人のやることだと思う。
そしてリアルな情感も「盛り」では乗せられないと思う。
「情感」という本人しか感じることも、表現することもできないものを、何か(自分の経験ではないもの)を参考に描くというのは大いなる矛盾である。

なので、盛る=絵の質を高める、では『ない』と私は思う。
勿論定義次第では変わるとは思うが。

人の目がつい釘付けになる絵とは、例えデフォルメ強めの絵柄であっても、読者の心に迫るリアリティが感じられると思うのだ。
リアルな絵柄、という意味ではない。
寧ろリアリズムに振った絵は美麗だが感情への訴求はそこまででもないと思う(個人的に)
例えば描かれたキャラクターの心情が真に迫るように描けていたら、リアルな絵柄じゃなくても目が釘付けになる。少なくとも私はそうだ。

真に迫る心情が絵に乗るとしたら、それはハウツーとして流通しているテンプレや学習由来の表現ではなく、本人自身の経験から来る過去の自分のリアルな心情にアクセスしながら描けた場合だと思う。
獣木野生氏のパームシリーズで、過去の後悔を噛み締めながら弾くボアズのギターを聴いてたジェームスが(そのギターの音色が余りによかったので)寝てしまう、というシーンがあるが、実際にも(寝るかどうかはともかくとして)良いと感じる作品の類型のひとつはそういったものだと思うのだ。

本人自身の経験から来る過去の自分のリアルな心情にアクセスしながら描けた絵は、その描き手の唯一無二のオリジナル

であると思う。
私が物心ついた頃から飽かず眺めて憧れていた絵は、そうした絵ばかりだったので、そんな絵を目指している。

そういう絵を目指すと承認欲求は邪魔でしかなくなる。
承認欲求は単なる余計な雑念でしかないからだ。
承認欲求などの雑念を忘れて描きたいイメージや心情に埋没し描画に没頭した時にこそ絵に(物理的に引いた線以外の)情感なり感慨が乗ると思う。

そんなわけで、私の目指す絵は承認欲求の多寡と反比例する方向性の絵なので、承認欲求をモチベーションに描く人には参考にならないし、そもそも向いてないと思う。
なので
「すまない、こっちを見ないでくれないか!」
となるのである。

彼らが私の絵をエンガチョしつつその上に見出しているらしい「あるはずのない何か」

とは、つまり承認欲求以外の動機から来る「この感情を持て余していて、それを表現せずにいられない」といった内的感覚の発露ではなかろうか。
しかし、さっきも書いたがそれは承認欲求とは正反対の性質のものなので、欲しいと思うのなら承認欲求を捨てないと手に入らないと思う。

彼らのように人気ジャンルに次々と乗り換える、その度に人気作家さんに擦り寄ってコネを作っては褒め合い掛け合いで人気を演出する(コネがあれば実力以上に誉めそやしてもらえる)、そりゃ努力も修練もさしてせずともある程度小器用に描けさえすればお手軽に承認欲求を満たせるだろう。(その上イベント主催者ともなれば当然どうしたって人は集まる)
彼らはそうしたくてしてるのだろうから勝手にすれば良いのである。

ただそれならこちらの絵とは方向性が違いすぎるのでやはり
「すまない、こっちを見ないでくれないか!」
と思ってしまう。
承認欲求をモチベに描く絵と私の絵は相性が悪いのでスルーをお勧めしたい。
そもそも違う目的とゴールを目指してるのだから到達点が違うのは当たり前なのである。
内部感覚に忠実に絵の質を上げようとしてる奴と盛ってでも馴れ合ってでも媚びてでも人の賞賛が欲しい人の到達点が同じなわけがないのである。
他人に媚びず馴れ合わず黙々と描くことに彼らが耐えられるとは思えないんだよね。

比べる対象は他人ではなく、脳内の理想

ちなみに私がペン入れが苦手というのは例え物理的にそうおかしくもない線がある程度引けても、それが脳内イメージの完成図と余りに食い違うことに我慢がならないからなんである。
そして脳内イメージの完成図にある程度近づけることができるのが輪郭線なしの面塗りで描いた(塗った)絵の方なので相対的にペン入れが苦手、と感じるわけ。
別に自分のペン描きが彼らのそれより劣るとかいうんじゃなくて、自分の脳内イメージの完成図とかけ離れてて劣ると感じてるわけ。
他人と比べてなんていないんだよね。
何度でも書くけどそもそも基準が向こうとは違うんだよね。
自分の手で描いたものならなんでもOK、という自己愛は自分は持ってないという話である。

この辺りのことは実は先日(長年上げ忘れてたけど)

の中で描かざるを得ない人「ではない」人を

自分の内蔵エネルギー<他人の目、賞賛

と不等式で表しているので興味がある人は上の記事をどうぞ。

(続)

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