エウレカのある絵〜人目を引くために極端であるより、目立たなくとも真実でありたい
…というのが私の基本スタンスである。
絵でも、文でも、考え方でも、人生においても、である。
これには自分なりの根拠があって、このスタンスで自分の気持ちを(他人に見せる目的ではなく)書き続けたら自分の鬱状態が寛解したからである。
人の同情を買うような誇張もしない。
表面的で衝動的な感情の波乱に自ら騙されないように気をつけ、感情の何重もの底を探りながら徐々に掘り進んだ。
そしてその底に動かし難い真実の気持ちが隠れていることを知った。
それは表面で荒れ狂う感情とはイコールとは限らなかった。
つまり、己が自覚できている感情が真実とは限らないのだった。
むしろ表面的に荒れた感情の流れとは別に滞留した深層水みたいなものが沈んでいることの方が多かった。
なので表面的な水の流れに捉われず水底を透かし見るようにものを見る癖がついた。
言い回しに矛盾が生じるが、顕在意識と潜在意識を意識して自分の内心を探っているわけである。
人目を引くために極端、というと絵で言えばエロ度を上げていく、という手法などが典型だろう。
しかしエロ絵が悪いと言っているのではなく、人目を引くために「どんどん極端になっていきリアリズムがカケラもなくなること」を私は危惧する。
一般的にはエロくてかつそこに一欠片のリアリズムが残っていたなら閲覧者への訴求力は上がるだろう。
リアリズムがカケラもなくなるほど極端に奇を衒ったものよりも。
とは言えエロには性癖というものも絡むからリアリズムからかけ離れればかけ離れるほど興奮する人もいる可能性はあるけれど。
私にはそういう癖はないので、例えば現実味と重力無視の爆乳より、「現実にありそうなサイズ感で重さや触感が伝わって来るような描写力」のある絵の方がエロいと感じるかな。
まあその描写力がないからリアルとかけ離れた極端に振れるんだろうけど。
じゃあリアル感てどうやったら出るのかって言えば特別な裏技はない。
それでも一言で言えばリアルオブジェクトへの理解や観察眼である。
とは言っても視覚的に二次元の形だけを単純に捉えるのではなく、
「なぜ(自分視点だと)その形に(二次元として)見えるのか」や、
重量という視覚で直接表せないものがオブジェクトのどこにどの程度どのように影響を及ぼしているのか、
などの多重の現実の物理法則に従った裏付けを取りつつ絵に反映させることである。
つまり、「通り一辺倒ではない裏付けと確信のある観察眼」ということになる。
例えオブジェクトを輪郭線で捉えるにしても、「なぜこの輪郭線になったのか?」への理解の有無でまったく印象の違う絵になる。
「なぜこの輪郭線になったのか」がわからなければ、その通り自信や確信のない薄い印象の絵になる。
逆にそれを、例えば「ここはあの筋肉がこう回り込んでるからこの形なんだ!」と理解できれば【その確信ごと絵に力強さや立体感が装備される】ことになる。
この、「ここはあの筋肉がこう回り込んでるからこの形なんだ!」という理解が「目立たなくとも真実」であり、私はたとえ如何に上手そうで派手で美麗でもそういう箇所をほんの少しも具備しない絵にあまり惹かれることがない。
逆に一欠片でも真実がこもった絵は一見派手な技巧派でなくとも目を惹かれる。
とはいえ私が見る限り【真に】技巧に優れてる人の絵は、軽く描き流されてても真実がこもっているけどね。
というか、描き流してるのに超絶技巧を感じる絵は震えがくるほど大好きですね。
(そもそも水墨画好きなもんで)
違う言い方をすると、「参考資料の引き写しが上手い人」の絵に私はあまり魅力を感じない。
「へえ、引き写しが上手いですね」という感想になる。
資料を見るのが悪いわけではない。
資料がありつつも「ああ、ここはこうなのか、こうなってるのか!」という【描き手自身のエウレカや真実がひとつでも絵に表されていれば】、たとえぎこちなさが残る拙い絵でも私は惹かれる。
上手い下手より一片の真実を含む絵が好きなのだ。
それは握られた拳に入った力かもしれないし、あけっぴろげの笑顔かもしれないし、風に吹き散らされる枯葉かもしれない。
描き手が「真実こう感じた、こういうイメージが見えた」というエウレカのある絵は、表面的に派手で技巧的な絵より、ずっと好もしいと私には感じられるのだった。