自分が他人に言うのは許されるが、他人が言うのは許さない
…ことを何と呼ぶか知ってますか?
ダブルスタンダード
と言います。
前回のnoteに対して「本人が苦しむだけなんだから放っておけ」という声があった。
しかしその声の主は、数多の他人への批判記事を多数書いている方であった…。
あれ、それではご自分の批判記事も「本人が苦しむだけなんだから放っておけ」=「批判記事を公開するな」(そう言う意味だよね?)にならないか?
その方と私の記事の間に違いはあるのだろうか。
どちらも当の本人に批判を直接向けていない。
少なくとも私は相手が読むように仕向けてはいない。
少々前にあった炎上騒ぎのように「読まれてラッキー」を狙ってるわけではない。
なぜなら、名指し批判したところで理解されるはずがないし、名指しは無作法と思うからだ。
批判記事を書くにあたってのそういうスタンスはおそらく双方同じと思われる。
では、なぜその方が声を上げたのか?
ご自分は散々他人への批判記事を書いているのに?
そもそも放っておいてほしいのは、誰であろうか?
私が記事を書くきっかけになった悩める絵師さんか?
それとも、ご自身なのか?
主語をご自分から悩める絵師さんにずらして、内容もさもさも一般論であるかのようにゴールポストもずらしてませんかね?
そもそもタイトルが「自己愛・自己陶酔は悪なのか」なのに「本人が苦しむだけなんだから放っておけ」が本文の要旨ならば、それは意図的なら「タイトル詐欺」ということになる。
だから前回「タイトルと本文が不一致」と書いたわけですよ。
まあでも、私はこの方が意図的にタイトル詐欺を働いたとは思わない。
単に自分に正直なだけだと思う。
ただ、自分は他人を批判してもよくて、相手は批判してはいけない理由を出せないのであれば(ウィットの効いた仕掛けがあるわけではないタイトル詐欺は不誠実ではなかろうか)、それは
ダブルスタンダードですね。
とは思う。
言い方を変えると「ご自分の都合で相手の口を塞ぐ言論統制」ですね。
元の絵師さんも、公開記事として出した以上賛否両論なのは当然ご理解していると思う。
そもそもが元の絵師さんはかなりストイックな課題をご自分に課してるわけで。
つまりかなりの向上心を持っている方であり、非常に冷静な面もあると感じるからである。
ただ、お使いのSNSの仕様の特徴を理解しないで「見てくれない、いいねがつかない」と言うのはそもそも論として当該SNSに向いてないのではとは思うけどね。
で、その元の絵師さんに頼まれてもいないのにイタコ芸、または良心的一般論を装い「本人が苦しむだけなんだから放っておけ」と代弁するのを何と言うか?というと
自己欺瞞
と言う。
私の記事を不快に思ったのはご自分自身であろう。
元の絵師さんでも、他の第三者でもない。
だけどそれを一般論として装うということはご自分の不快を「みんなの不快」にすり替えていることになる。
そもそもがタイトル詐欺になってしまった経緯もある程度は推測できる。
きっかけになった前々回の記事の「自己愛・自己陶酔が作品に対して害毒になる」あたりに脊髄反射で反発を覚えた感情論がそのままタイトルになったのだと思う。
だけど脊髄反射は脊髄反射でしかないのでご自分のモヤモヤを紐解いていくと本文になったのだと思う。
でも脊髄反射の感情論を撤回するのは「癪に触って気が済まないので」そのままのタイトルになったんだと思う。
また感情論優先なので整合性取る気もなかったのだろうとも思う。
もし、本文の主旨の「本人が苦しむだけなんだから放っておけ」が、真実に一番の主旨であるならば。
まずご自分の他者批判記事を全削除しなければその主旨との整合性が保たれないのではなかろうか。
そして冷静さと誠実さがあるのであれば、タイトル詐欺を許容できるはずがないのではあるまいか。
そのくらいに本文主旨はご自分の過去記事の存在意義自体を揺るがす矛盾点になっている。
なので、タイトルで一般論風を装って脊髄反射で賛成してくれる味方を釣って、本文主旨はタイトルと齟齬にしておいた方が都合がいいのだと思う。
脊髄反射厨はタイトルと本文の齟齬なんて気づかないので自分の感情論を満たしてくれる意見なら文字通り脊髄反射で賛成してくれるからである。
その上過去記事で自分に不都合な批判記事を書かれているかどうかを確認するほどの慎重さもないからである。
だから、その場限り(何せ脊髄反射だし)で記事投稿者のそれまでのスタンスと齟齬があるかどうかも気づかない確率が高い。
ちなみに私が前回、前々回のような記事を書いてはいるが、本人に読まれることは想定していない。
冒頭にも書いたように、名指し批判したところで理解されるはずがないし、名指しは無作法と思うからだ。
そもそも名指し批判されたら真っ先に反発されるのは必至なので。
反発が悪いと言う意味ではない。
一般的には当然の反応である。
一部の謙虚な人、大人の対応ができる人以外ならね。
単に「現実とは得てしてそうである」と了解している、と書いているだけで、私は善悪まで判断はしていない。
そして何より、本人が自分の言動の齟齬に気づくタイミングは、他人によって強制的にもたらされるものではないからである。
好きな言い回しではないのだが、「気づき」というものはその人その人でそれぞれのタイミングがあると思う。
そのタイミングが到来しないといくら当人の目の前に正解を書いた紙をぶら下げても読まれないし、読んでも反発されるだけである。
また、そういうタイミングはいつ、誰に訪れるかはわからない。
本人があくまで「気づいてしまう」ことを頑強に拒否していたら一生気づかない。
し、そういう人もままいる。
なので、名指しでの批判は(法や倫理に背いたことへの批判でない限り)まったくの徒労である。
だから私は名指しせず、いつか誰かに必要になるかもね?(全然ならないかもね?)
という内容を公開する。
それを誰がいつ受け取るかは自由であるし、拒否するのも自由である。
それが言論の自由というものではないのだろうか。
いずれにせよ、反発=悪、自己愛=悪とこちらは書いていないのだが。
(作品の質の追求に当たっては自己愛が害悪をもたらす、とは書いたが自己愛者本人そのものを悪とはしていない)
脊髄反射の民は自分自身でそれを「悪」と解釈しておいて「悪って言われた!キー!!」と怒り狂ったりする。
なんでそんなに「自分が裁定された」と思っているのか、謎である。
仮説としては、本人が他人に裁定を下したい願望があるので、逆に他人に裁定されたと感じたら怒るのかな、とは推測する。
でもそれなら、他人が怒るようなこと(と自分が思ってること)を、自分は相手にだけはやりたいってことになるよね。
というわけでそれは
自分が他人に言うのは許されるが、他人が言うのは許さない、
ダブルスタンダード。
となるのではないか?
という話。