最近相方に教えてもらって色々考えさせられたnoteを読んで思い出したこと。 〜あるはずのない何かと同人誌即売会におけるエンガチョを巡るミステリー〜(3)

前回、前々回は地元でエンガチョされたあと大都会()で雲上人と出会い、そして決裂したが、実は「農民は生かさず殺さず」「売れ筋は狙わず盛らず」を半ば意図的にやってたという話の続き。


私にあって彼らにないもの、彼らにあって私にないもの

私にあって彼らにないものがあると思う。
それは、
「リアルには存在していないはずなのに脳内に確かにある脳内ブラックボックス内のイメージの存在の知覚と自覚」

「そのイメージをできるだけ損なわないようにそのまま具現化したいという欲求」

「そのイメージに可能な限り追いつけるよう近づけるように描くための技術の探究心(逆にいうとそれ以外の目的のための技術はスルー)」

「そのイメージとかけ離れた完成度の低いものを見分ける知覚と自覚」

「イメージとかけ離れた完成度の低いものは採用しないという基準の適用」
である。
これらがそんなに羨ましいんなら、彼らも同じようにすればよろしいのである。
ただ孤独な作業にはなるけどね。
お仲間のおべんちゃらの否定だから。
自分は擦り寄り、阿りの方が「よりやりたくない行動」なのでこちらを選んでるだけなのである。

逆に彼らにあって私にないものはそれ以外の全てだ。
自分の描いたものならなんでもOKの自己愛と
自己顕示欲と
承認欲求と
テキトーに描ける小器用さと
テキトーに描くことも許容できる基準の緩さと
自分の知ってる技術だけが技術の全てと勘違いできるおめでたさと
テキトーに描いても褒めてくれて気持ち良くさせてくれるお仲間と
人気演出のための馴れ合いがお仲間とできる程度のコミュ力と
自分の未だ持てない上に既存のハウツーでも理解できない誰も教えてくれない上に自分では分析もできるはずもない、謎の「あるはずのない何か」まで欲しがる強欲さと
自分の知らない技術の根本を探究しないで上っ面だけで技術を盗めたと勘違いできる傲慢さと
実はそれが手に入っていなかったことに気づいたら相手の存在を村八、抹殺する陰険さだ。

別に羨ましくもなんともないけど、テキトーに描いても褒めてくれるお仲間なしでは活動できなさそうだから、ヌルくてもやってける環境でよかったね、とは思う。
自分の脳内イメージとの乖離も気にせず描ける鈍感さは、羨ましくはないが生き易そうで本人は幸せなのではなかろうか。
幸せなら自力で追求する気もないのに他人の技術まで欲しがるなよなー、とも思うけど。
自分で追求するならそれらのヌルい環境投げ捨てなきゃならないんだよね。
その覚悟が彼らにあるのだろうか。

高い基準や目標を自分に課すこともしないのに、他人が高い基準を目指して習得した技術やそこから生まれる存在感やインパクトまで欲しがる、ってのはまあ強欲だよね。

それは地味さの積み重ねから生まれたエウレカ

タネを明かすとその存在感やインパクトはハウツーから生まれるものじゃなくて、彼らがつまらないとかめんどくさいと思って切り捨ててる、周囲のもの全てに対する観察力から生まれるんだよね。
観察して「本人の任意の配分でデフォルメ、圧縮した結果の」生産物(絵)から、観察力を得た本人並みの観察力なんか他人には盗めないんである。
自分が周囲のものを観察することを怠ってるくせに他人が弛まず習得した観察力から生まれる存在感やインパクトを欲しがるなよ、と思う。
ヌルい環境で馴れ合って承認欲求満たせれば満足なら、ヌルい環境では決して手に入らないものまで欲しがるなよ、としか言いようがない。
勉強しないで東大入りたいって言ってるようなものでそりゃあ無理、なんである。

もし、私の絵になんらかの存在感やインパクトがあるとしたら、それは
「このモノの形は、こうなっているのか!」
「このモノの構造は、こうなっているのか!」
「このモノの陰影は、こうなっているのか!」
私が周囲のものを観察してて不意に理解できたエウレカの感動から生まれたものだと思う。
いくら欲しがったとしても、人の感動を他人が再現できるわけないんだよね。
あくまで感動は感動した人のもので、他人に盗めるものではないのだから。

そう、私が絵を描いてて楽しいのは、ぼんやりしてて細部が見えないけど確かにある脳内イメージを紙(ディスプレイ)の上に表出させて、細部を詰めていくと「ここはこうなってたのか!」と新たな発見を得て腑に落ちた瞬間なのだ。
描きながら対象物(キャラクターであろうが非人間のオブジェクトだろうが)を紙の中から掘り起こしていく感覚とでも言おうか。

リアルな世界は陰影の法則で出来ている

私は今でも「リアルな世界が陰影の法則で出来ていて、輪郭線というものはリアルなモノには存在していない」と不意に頭に何かが落下してぶち当たったかのように理解した時の感動を忘れていない。
そしてそれを紙の上で再現するのが楽しいのだ。
その自分で気がついた陰影の法則を適用して絵を描くと、陰影の法則自体はリアル由来だから二次元なのに変なふうに存在感が出るのだと思う。

ただそれは(繰り返し何度でも書くが)あくまで周囲のリアルなモノを観察して私が気づいた法則なので、その法則を理解してない他人が私の絵から習得できるものではない。
私は私の基準でその法則にデフォルメをした結果を出力しているからである。
私が私基準でデフォルメを施した出力データから、他人がデフォルメ前の私が理解した法則を読み取ることは不可能だと思う。
仮にそれができる人がいるとしたら、それはリアルオブジェクトから陰影の法則を既に習得済みの人だと思う。
そういう人なら私がリアルオブジェクトからどのように加減乗除をしたデフォルメ結果を絵に出力してるか理解できると思う。
ついでに言えばそういう人は既にリアルオブジェクト陰影法則を自分自身で習得済みなのでわざわざ私の絵からそれを盗む必然性がないから、彼らのような挙動不審な行動はしないのである。

結果、挙動不審な動きをする人は押し並べて徒党を組んでて馴れ合いで褒め称えあって「サイコーの仲間達です!」みたいなことを言う。
でもそれは自分の足りない画力や観察力や修練の代わりにお仲間の褒め合い馴れ合いで補ってるだけで、彼らの画力の向上にはなんら寄与しないのだけど、それには気付いてないか、見て見ぬ振りをしている。
で、自分の理解できない技術を他人のそれを見てこっそり欲しがり、奪えないと分かると徒党を組んで村八分にする。
自分の理解できない技術を持つ人間が地球上に1人でも存在したら困るのだろうか。
自分の知らない技術なんてあって当たり前なのにね。

雲上人Aさんにしても、多分あまりに貧相でヘボい私たちに対して相当な優越感持ってたんだろうなとは思う。
一見全ての要素に於いてAさんは同人活動でもプロへの道のりでも私たちよりずっと前を行ってたわけだし。
それなのに全てに劣るはずの私がヘボなりに自力だけで絵を描いているという事実、たった一点ですら受け入れられなかったらしい。
結局私たちはAさんの引き立て役として都合良く気持ち良くなれる相手としか見なされていなかったんだろう。

この辺りも(前回記事でも引き合いに出したが)

の中で描かざるを得ない人「ではない」人を表す不等式として書いた

自分の内蔵エネルギー<他人の目、賞賛

に該当すると思うのだ。

事務仕事でよかったと思ったもう一つのこと

最後に、前に書いた記事

で「事務仕事はバカにされがちだけどそう捨てたもんじゃない」という話をしたけど、事務仕事でよかっと思ったことがもう一つある。
渦中にいる時は全然そんなこと気づいてなかったけど、鬱で精神状態ボロボロでも、慣れたルーティンワークならなんとかこなすことができて、食いっぱぐれなかったことだ。
仕事してる間は、同人活動のいざこざから頭を強制切断できたしね。
なので、そこで仕事をやめなくてよかったと思う。
ただし、能率は落ちるんだけど。なんとかこなせてよかった。
経済的困窮は視野狭窄と精神的荒廃に繋がるから、今思えばそこだけは持ちこたえて良かったと思う。
まあ、鬱の時の生活自体はひどいもんだったけど。

結局、自分がなぜ絵を描いているのか?

自分の内蔵エネルギー<他人の目、賞賛

自分の内蔵エネルギー>他人の目、賞賛

どちらを選ぶかは自分次第だけど、自分の中での優先順位を勘違いしたり自分を騙すのは不幸の元だと思う。

ただ、他人の目、賞賛の方を優先したら、ほぼ「ある一定レベル以上にはなれない」とは思う
他人軸では自分の絵をどこまでも追求はできないと思うので。
そして褒め合い仲間がいたら向上心無くしそうだし、褒め合い仲間の中でも向上心無くさなかったら村八分にされそうだしね。

それよりは「自分自身に」なった方が、少なくとも私は居心地がいいし、描いてて楽しいのである。

まあ、どちらを選ぶかはその人次第だけどね。

(終)


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