「そういう設定にした」は「その通りに描けた」ではない話〜脳内ぴちぴち活き造りと画力は別なんです
前回書いたこのnote。
↑の中でこんなことを書いた。
↑の
って例は実際にはこうやって文で書いてあるだけだと「ただの設定」でしかないのよねー。
と書いた通り。
だから普段はそういうのは一切外部に詳らかにしないで絵を描いてる。
相方にもである。
相方には内容は告げないでnote更新するか絵だけポン、と共有アルバムに送るかである。
「絵の価値は設定じゃなくて描けた結果」だと思ってるので。
設定は伏せておいてどのくらい想定に沿った、もしくはそれ以上のものが描けたか、それとも全く及ばずだったのか、私はその判断を見る人に丸投げする。
「こういうつもりで描いた」「こんな設定で描いた」は単なる描き手の言い訳でしかないと思うからだ。
なので絵自体の詳しい情報は交えず描いた結果だけ、もしくは絵と直接関係のない裏話だけ付加して見る人に丸投げすることにしている。
少なくとも絵の解説はしないようにしている。
例えばお笑いでもギャグの説明を自らするのは如何にもサムイ。
絵でもそれは変わりないと思う。
聞かれもしないのに自分からどんな設定で描いたかを言葉で説明するのは無粋だと思うのね。
絵を描いてるなら言葉ではなく絵で表すのが本筋ではないかと。
というわけで絵は設定より「描けた結果」がすべてだと思う。
ただ「描けた結果」に結びつくのはやっぱり「過程」である。
過程を重視しない絵にはナラティブがない。
なぜその表現を選んだか、という試行錯誤の過程そのものがそのままナラティブにも寄与するものだからだ。
ナラティブというと以前素晴らしいnoteを紹介したことがある。
AI生成画に何が欠けているのかというと「ナラティブ」である、という素晴らしい卓見のnoteの紹介である。
ただ私はこの「ナラティブ」は確かにAIでは欠けている(過程がないので)けど、手描き絵でも欠けているものを割と見かけると思っている。
ナラティブは経験的に「自己の」脳内イメージで特に付与されるので、他者の技術の流用以上のものがない絵には感じられないからだ。
なのでインスタントな画力向上メソッドを実行した結果画力向上した、というだけではナラティブではないと思っている。
それよりその向上した画力で「脳内のどんな癖やイメージを如何に活き造りのように新鮮に取り出すか」、の方が大事であると思う。
メソッドによる画力向上は、活き造りを如何に生き生きと仕上げるかのための道具の一つ、包丁の切れ味を上げるためのものであって、「活き造りの素材そのもの」ではないと思うからだ。
だから「画力向上」自体には「絵にナラティブを持たせる力はない」と思う。
画力が脳内イメージ具象化の邪魔になるほど低いとナラティブ以前にボトルネックになる。
必要十分の画力向上はそのボトルネックを減らす程度の意味合いしかないと思う。
繰り返すが重要なのは「その向上した画力で、如何に活き造りを脳内からぴちぴちのままスムーズに放り出すか」である。
画力向上自体は目的ではなく、生き生きした脳内活き造りをつるんとスムーズに放り出すための手段のひとつである。
つまり設定だけではぴちぴち活き造りにならないし、画力向上だけでもぴちぴち活き造りにはならない。
ぴちぴち活き造りはあくまで脳内イメージを損なわないように如何に取り出すかでしか決まらない。
なお脳内イメージが他人から拝借したイメージの影響受けまくりだと「自分のナラティブではない」から絵としての威力は消滅する。
他人の影響受けまくりイメージは他人からもらった切り花のようなもので、自分の脳内の土壌では根付かず単体で生き延びる生命力はない。
自分の脳内イメージは自分の過去の経験や感情の履歴の積み重ねの土壌の上に蒔かれた種子から育った自分の脳内土着の宿根草のようなものである。
隣の芝生の青さを羨んで隣の芝生をちぎって乗せようと隣の芝生は自分脳内土着植物ではない。
なので根付かずにせいぜい枯れた隣の芝生が時間をかけて分解されて土壌に還元される程度だと思う。
そうなって初めて自分の脳内宿根草の栄養になるかもね、程度にしか役に立たないと思う。
というわけでまとめると、「そういう設定にした」は「その通りに描けた」ではない。
ぴちぴち活き造り脳内イメージの具象化でもない。
それらは画力向上で得られるものでもないしナラティブでもない。
ナラティブは自分の脳内イメージ土着の宿根草を育てる過程そのものじゃないかな。
という結論なのであった。
へばね。