「媚び」を用い「自己愛」に浸る⚪︎⚪︎はいない
前回、
媚びという感情が極めて苦手な話
という記事に書いた続きになるんだけど。
「媚び」と「自己愛」が私は非常に苦手という話である。
そして「自己愛」と「自己肯定感」は似て非なるということも書いた。
なぜ苦手かというと「媚び」には「一見下手に出つつ相手をコントロールしたい傲慢さを感じる」からであり、
「自己愛」は「自分を何より優先=他人の迷惑を考えない」タイプなので単純に近寄りたくないからである。
その両方ともが傍目からすると、言い方はキツイが「見苦しい」と感じるのだ。
もっと言えば、「媚び」も「自己愛」も、たとえば漫画やアニメやドラマの人物なら小物悪役の属性ではなかろうか。
逆に言うと、
「媚び」を用い「自己愛」に浸る大物︎はいない
ということである。
早くもタイトルの結論にたどり着いてしまった。
しかし私は大物ではまったくなく極めて小物なのに「媚び」も「自己愛」も苦手なのは単なる同族嫌悪という可能性が大である。
ただ自分のことはさて置き私は相方と共同で創作でストーリーやキャラクター造形を練ったりすることがある。
相方との共同なのは私は単独ではお話が作れない体質だからである。
(↓参照)
そうすると、キャラクター造形の時に大物と小物の挙動は厳密に分けて作らないと「大物の器がないのに大物に見られたい小物」キャラになってしまい、説得力が皆無になってしまうのである。
ということは、大物と小物の決定的な差である「媚び」や「自己愛」を厳密に見分け、書き分ける能力が必要ということである。
なので、自分のことはさて置いたとしてもキャラ造形では厳密に「媚び」「自己愛」を見極めて排除しなくてはならないのであった。
これはストーリー作成過程に限らず絵でも同じことで、大物を描きたいのに表情に「媚び」や「自己愛」が入ると大物どころか小物になってしまうのである。
なので、自分のことはさて置いてもやはり厳密に見分け排除する能力は描き手としてはどうしても必要になるのであった。
ではなぜ「媚び」「自己愛」は大物にはないのか?
それはイメージしてもらえば感覚的には理解してもらえると思う。
仮に具体例を挙げるなら、某超大物日本人メジャーリーガーとかだろうか。
彼に「媚び」はない。
媚びる必要もない。
自分の能力を最大限に磨いて競技に打ち込んでいる。
彼には「自己愛」もない。
「自己肯定感」はあるが「自己愛」ではない。
彼が他人を気遣うことができる人品であること(=自己愛に耽る品性ではないこと)は私のようなスポーツに疎い人間より他の人の方がよくご存知だと思う。
別なアプローチで考えてみる。
「自己愛が強い人」とはどんな人か?
というと「自分『だけ』が好きな人」とか「自分が自分がで他人に一切斟酌しない人」とか「自分ばかり優先で他人には何一つ譲らない人」とかまあいろいろ言い換えはできると思う。
しかしそういう人の中でも擬態をする人もいて、「何かに打ち込んでるとか他人のために何かしてあげる(ように他人から見られるような)自分が好き」という応用編もある。
しかもこのタイプは割と多い。
意識高い発言が多い人にこのタイプを頻繁に見る。
または「恋をしてる自分が好き」というタイプもよく見かける。
そうか、相手を好きになる恋じゃなくて恋する自分が好きなのか…と本末転倒ではないか他人事ながら心配になる。
自己愛を「擬態で隠して何かに打ち込んでる風」の人と本当に打ち込んでる人の違いは大きい。
打ち込んでる風の人だとたとえば被災現場に行って「被災地が心配でとるものもとりあえず駆けつけました風」でいながら「被災箇所でピースしながら自撮りするタイプ」とでも言おうか。
「そこで一番しなければならないのは自己アピールではないのでは!?」とギャラリーに思わせてしまうような人が擬態タイプである。
「常にカメラを意識しているタイプ」とも言える。
言い換えると「常に頭の中が『他人から見た自分』でいっぱいで一瞬たりとも自我を捨て切れない、自意識が文字通り過剰なタイプ」とも言える。
この「一瞬たりとも自我を捨て切れない」が「本当に打ち込んでる人」との最大の違いである。
なぜなら「本当に真剣に打ち込んでいたら自我が飛ぶ瞬間がある」からである。
「自我が飛ぶ瞬間がある」とはどういう意味があるのか?
それは「『打算や計算ずくではなく』夢中になれる」ということである。
「打算や計算ずくではなく」とはどういうことか?
というと「他人からこう思われたい、こう見られたいという自意識から逃れられた」ということである。
「自意識から逃れられること」にどんな意味があるのか?
「顕在意識ではなく潜在意識にアクセスした」、つまり『自分の隠された潜在能力にアクセスできた』ということである。
つまり、自意識というものは自分の能力をちっぽけな範囲に閉じ込める小さくせせこましい『檻』なのである。
意識してできる範囲の最大の能力というものは、無意識に解放された潜在能力から見たらまさに『小さくせせこましくチンケな』程度のことしかなしえないのである。
この辺りのことは過去のnoteでも書いた。
さきほど某超大物日本人メジャーリーガーを引き合いに出したが、なぜ彼があのように自己の能力を遺憾なく発揮できるのか?
と問われれば繰り返しになるが、私の狭い知見ではあるが彼の言動を見る限り
「自分の能力を最大限に磨いて競技に打ち込んでいて」(自分の銀行口座開設後の残高を何年も顧みないほどとにかく競技に夢中で)
「他人を気遣うことができる」(他人に譲ったり寄付したりできる)
しかし
「(よほどのことがない限り)自分の意見をゴリ押ししない、が譲れないことはキッパリ断る」(元通訳に借金の肩代わりを本人がしてあげたことにしてほしいと依頼されたがすっぱり断った)
姿勢に垣間見ることができると思う。
これはつまり「自我に執着していない」、「自分自身よりも好きな(夢中になれる)ものがある」、「他人にどう思われるかが物事の判断基準ではない」ということである。
言い換えるとこれは「自分自身の価値観が他人軸ではなく『自分軸』」ということである。
「夢中になれる→無意識に自我を手放せる→潜在能力を発揮できる」
という図式である。
もちろん遺憾なく発揮できるには相応の修練が欠かせないが、自分の銀行口座残高が元通訳に抜かれてすっからかんなことも気づかないほど試合や練習に打ち込んでいた時点でどれだけ競技に集中していたかは誰もが理解できることではなかろうか。
何せ、巨額の報酬を得る地位にいながら、まったく残高に頓着していないわけである。
それだけの金銭を得られる地位にいながら誰もが執着するはずのお金に対して実にドライである。
もちろん必要とあらばドン、と使っているのだが(12億だかの豪邸をポンと買ったり、その豪邸の住所をコンプラ欠如のメディアに晒されてポンと売り払ったり)
しかしそれは「巨額の金を動かせる自分」「華やかキラキラ生活を他人に顕示するマウント」に酔いがちな俗人と違い、あくまで実務的な必要に応じて使っているだけに見える。
とはいえ燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんやの故事の通り、私のような卑賎な俗人には彼のような大物の心は計り知れない。
ただそれでも貧弱な知見と経験則から推測するだに、以下のようなことが言えると思う。
基本的に人間が潜在能力を発揮できた時の開放感や手ごたえを知ってしまえば、「他人からどう思われたいのか」を気にすることなど馬鹿らしくなってしまう。
「他人からこう思われたい」と取り繕うということは、ある意味他人に対して「嘘をつく」ことである。
少なくとも正直とは言えない。
嘘をつき続けながらでは前人未到の偉業は達成できないのではなかろうか。
とはいえ嘘も方便ということももちろんありうるのですべての嘘を否定するつもりはない。
しかしこれが「媚び」となったらどうであろうか。
本音を隠しつつ、相手を自分の本音の方に誘導し操ろうという打算と計算の為せる技である。
「自分を他人からこう思ってほしい、こう見られたい、自分が一番、自分が他人より認められるべき、自分は他人より魅力的であり、優遇されるべき」という『自己愛』から始まって、「自分の魅力で相手を籠絡して自分の思い通りに他人に動かしてやろう」となると意図的な『媚び』になる。
であるから『自己愛』と『媚び』は同一線上の延長に現れる心象であると考えられる。
つまり「媚び」とは不正直であり、他人を思い通りにしてやろう、という傲慢さの現れと言えるのではないだろうか。
というか、小難しいこと一切抜きにして、「媚び」「諂い」「阿諛追従」「自己愛」の人に関わり合いたいと思う人っているんだろうか。
典型的な小物凡人の私ですら真っ平ごめんであるのだが。
逆に言うと真っ平ごめんなのでそういう人に近づかないために瞬時に嗅ぎ分けられるように常に分析と観察を怠りなくしてしまうわけだが。
そんなわけで、私は『自己愛』と『媚び』がおそらくこの世で一番苦手なものである。
ちなみに自分のことは棚に置くのが、私が小物の木っ端絵師の燕雀である所以であることは、言うまでもない。
まあそんなもんです。