繫栄する自己愛性、不死身の演技性、喰らい付く境界性。B群パーソナリティ障害を持つ人と同じ世界で生きていく。
毒親=何らかのパーソナリティ障害という仮定で書いています。
私の身内はB群祭りだったのでB群に焦点を当てています。
はじめに
パーソナリティ障害を持つ人は一定数世界に存在するし、私たちはそんな世界で生きていくしかない。
ましてや所得アップや結婚が厳しい現代、不器用で優しい人よりも、表面上の立ち回りが上手い彼らの方が確実に子孫を残し、遺伝子を未来に繋いでいく可能性が高い。今後ますますパーソナリティ障害を持つ人の割合は増えるだろう。
私はパーソナリティ障害=本人は無自覚のため臨床的な研究は進まず、ストレスを与えられる周囲の人間だけが順調に精神科送りとなる理不尽な現象の原因と考えている。
彼らは平気で他人の人生を破壊する。被害者が恨みや不満を吐き出したくなるのは当然だ。書いてスッキリするならどんどん書いてほしい。頷きながら拝読する。
ただ、もしも地球規模でパーソナリティ障害が増えていくならば、我々はその都度傷つき、怒り、体にダメージを受け、鬱やPTSDを発症していたら身がもたないのではないか?特定の相手に具体的に何をされたかは一旦置いておいて、パーソナリティ障害のある人が当たり前に存在する世界で生きていくことについて考え、自分なりのスタンスを確立しておいた方がいいのではないか?
厄介な身内に苦しみ、複雑性PTSDを発症し、今に至る私の考えを残しておきたい。
おおまかな被害の経緯
個人的な話だが、私は実母と義父に苦しめられた末に自殺未遂を起こした。
涙と震えが止まらない状態で精神科を受診し、複雑性PTSDと診断され、現在は服薬によりフラッシュバックや動悸などの症状を抑えている。
薬の力を借りても、無意識の領域である悪夢の改善には長い年月を要した。
大抵の悩みは書きだすとスッキリするのに、この件については思い出すだけで動悸が激しくなり、また悪夢を見るのではないかと恐ろしくなって書けずにいた。具体的に何があったかは最低限にしておく。詳細に書こうとするとフラッシュバックの引き金を引いてしまうし、何より実母と義父の行動は世の中に溢れる毒親エピソードと100%一致しているからだ。
人間ではなく『症状』が服を着て歩いている
毒親、パーソナリティ障害など言い方は様々だが、彼らには揃って個性がない。彼らの生き方は単なる『症状』なのだ。
対話が不可能、絶対に非を認めない、平気で嘘をつく、ターゲットを孤立させ自分への依存を強めようと周囲を操作する、骨の髄まで搾取してくる、責任転嫁をして罪悪感を植え付ける。自分は被害者だと信じている。
まるで犯罪マニュアルのように、彼らは同じやり方で立場の弱い子供や周囲の人間を支配する。そして被害に遭った側もまた同じように傷つくのだ。
そっちがマニュアル化するならこっちもマニュアル化できないか
パーソナリティ障害を持つ人に害された人の体験記を読むと必ず思う。「ああ、私の時と同じだ」と。相手のやり口も、それによって被害を受けた側がどんな対応をするかも。
結論としては既に言われているように
・話し合おうとしてはいけない
・たとえ身内であっても物理的に距離を置く。絶縁する。
なのだが、問題はそこに至る頃には既にこちらの心身がボロボロであることだ。
自分の気持ちを打ち明け、話せば分かると信じて言葉を選び、向き合おうと努力し、それでも相手は「全部お前が悪い」の一点張り。何なら加齢によって性格は悪くなる一方で、事態はより悪化していく。
「コイツは人間じゃない」と気づき、諦め、逃げ切った時には満身創痍で、突き落とされた人生のどん底から這い上がる気力もない…ということはないだろうか。少なくとも私はそうだった。
だけど私たちは判で押したように同じことをされているのだ。それに対して同じように傷ついていては面白みがないではないか。私たちは個性を持った
人間なのだから。そんな風に考えてみることはできないだろうか。
悪いのは『パーソナリティ障害』そのものではない
よく言われるように、パーソナリティ障害を持つ人の中には大企業の社長や弁護士、芸能人など、社会的に成功している人も多い。
優しさや思いやりで得られる幸せを否定はしないが、所詮人間も生き物なのだから、他人を押しのけてでも自分がトップに立ち、(法律的にはアウトだが)多くの異性と関係を持ち、自分の遺伝子を多く残すことが正義だ。
俺が俺がの精神で他人を蹴落とし、嘘をついてでも自分を良く見せて他人を惹きつけることは生物の生存戦略としては正しいのだ。腹立たしいことに。
適切な例えかは分からないが『芸術家気質』だってそうだろう。
世界規模のイノベーションを生み出す歴史的芸術家がいる一方で、天気のいい日に部屋に閉じこもり面白くもない記事を(きっと誰かの役に立つだろう!届いてくれ!)と意気込んで執筆している私のような自己満足芸術家だって存在する。『芸術家気質』そのものに罪はないのだ。これはあらゆることに見られるのではないだろうか。
パーソナリティ障害もまたこれらの一つでしかない、というのが私の考えだ。持って生まれた気質を活かせる人もいれば、それに殺される人もいる。
稀に自覚をもって通院している方を見るとその心の強さに敬意さえ抱く。当事者が自分を見つめることをどれだけ怖れているかは身内を見て自分なりに分かっているつもりだ。
唯一、気を付けなければならないこと
私は母を間近で見ていたから、母が心の底では幸せでないことを知っている。お金をばらまいて『お友達』を増やしても、嘘を言いふらして味方を増やしたつもりになっても、一生暮らせるお金があっても、心の奥底にはいつも見捨てられ不安が炎のように燃えさかり、それに突き動かされた母は華やかに転げ落ちていった。
ありのままの自分を見つめる、自分の非を認めることは、母や義父のような人間にとって死刑宣告に等しいのだろう。そんな目に遭うくらいなら相手を死ぬまで追い詰めて殺した方が遥かにマシ。母や義父からはそんな並々ならぬ気迫を感じた。
同じく被害に遭った親族から「あの人(母)は本当は不幸なのよ」「娘のあなたが幸せになることがお母さんへの一番の復讐よ」と声を掛けられるたびに違和感を感じていた。悪気のない言葉だから表面上は「そうだね、ありがとう」と返しているが、それじゃ駄目だと私の心が告げている。
私が乗り越えるべきは母や義父という個々の存在ではない。
この世界には人を人とも思わない人間が大勢いること。彼らの手段を問わない生き方は(残念ながら)収入や生殖という生存競争に勝利して子孫を残していること。
私たちはずっと利己的な遺伝子を持つ人と共存しなければならないこと。
私は恨みではなく現象として彼らの行動をよく知り、彼らと同じ世界で生きていくための対策を練りながら生きなければならない。
そのためには「あの人だって本当は不幸なのよ」という言葉で慰められてしまうような心構えでは駄目なのだ。
フラッシュバックが怖くて長いこと溜めていた気持ちをやっと書けた。
読んでくれてありがとう。
何様と言われる覚悟で、それでも書き残しておきたかった。