装備を変えて、新しく生きる。
「心機一転」
…ある事をきっかけに、気持ちがすっかり変わること、また変えること。
中学の時は、ふで箱。
高校の時は、化粧ポーチ。
大学の時は、財布とか手帳。
社会人になってからは、ネイルやまつ毛エクステ、通勤カバンや靴などなど…。
学生の頃の私は春になると、ふで箱やらポーチを必ず変えていた。
アイテムを変えることでしか、怠惰になっていく自分をリセット出来ないからだ。
社会人になるとお金に余裕が出来て、
毎月ネイルを変えたり、コスメを変えたりして
8時出勤、17時退社の単調な日々に変化を与えていた。
そして専業主婦の現在は、装備なし。
無課金ユーザー。
節目や趣味でアイテムを変更する精神的、物理的余裕はなくなり、白パンツのみでウロウロするアバター。
それが私。
身の回りのものは全て、便利さと効率と手軽さを重要視したもので溢れ
「生きるためには無意味だが、活きるために意味のあるもの」は無くなった。
私の身の回りにあるものは全て、自分以外の誰かのために意味のある物になった。
・汚されてもジャブジャブ洗える服
・走りやすい靴
・多機能ポケット付きのカバン
・診察券がたくさん入る財布
・子供を傷つけない短い爪
・1つに結んだだけの髪
これらは全て誰かに指示されたわけじゃなく
自分でチョイスしている物なのに、なんだか不満がある。
多分、自分自身が「母はこうあるもんだ」と命令しているから苦しいのだと思う。
素敵な小さなカバンに
小さい財布とスマホ、リップだけを入れ
ひらひらのワンピースを身に纏い
可愛いヒールを履いて
キラキラ可愛い爪で子育てすることは出来る。
もちろん、そうしている人もいる。
でも自分はやらない。
キラキラを実行するには多分きっと、大変な努力とストレスがかかるから。
努力をするのは嫌だけど、現状には不満がある。
ワガママだけれど、正真正銘それなのだ。
母業(父業)とは、努力と忍耐と選択の連続で成り立っているものだから
もう少しも余計な事で努力したくない。
「自分のため」であることすら「余計な事」に分類されてしまうほど
悲しいことに、私は日々に翻弄されて疲弊している。
しかしそんな中、
疲労の海から顔を出して、一瞬息をするように小さな心機一転を試みる。
スキンケア用品を一新したり、カバンを変えてみたり、少し高級なマグカップを買ってみたりする。
だけど、どうだろう。
年齢を重ねるごとに、新調パワーの効き目が悪くなっていることに気が付いた。
学生時代は、1度文房具を変えたら1年間はワクワクできた。
今は、スキンケアを変えても1週間くらいで何てことなくなる。
可愛いカバンを買っても、使い勝手が悪い気がしてカバンジプシーになる。
もう、物を替える程度の事では、心機一転できなくなってしまった。
なんて寂しい心になってしまったのか。
新しい筆箱に、新しいペンをお気に入りの色順に綺麗に並べ、消しゴムの向きを揃えて鼻息を荒くする、あのトキメキはもう戻ってこない。
だけど、気付いたことがもう一つ。
年齢を重ねるたびに、感受性が豊かになっている。(涙腺もガバガバ)
CMで聞いた曲のワンフレーズに感動したり
俳優さんの見事な演技にゾクッとしたり
観葉植物の新芽に「よく咲いてきたね」なんて話しかける。
ハタチやそこらの時にはスルーしていたであろう物事に対して、心が敏感に反応してキャッチしている。
これは、嬉しい変化。
心が動かなくなったのではなく、心が動く対象が変わった。
成長したということなのかもしれない。
そして、そういった小さな感動によって、小さな心機一転が行われている事にも最近気付いた。
物じゃなくても、心機一転することが出来る。
感動を喜びを、癒しを興奮を。
そういう感情を心に装備すると心が潤う。
だいぶ抽象的な表現だけれど、伝わるだろうか。
慌ただしい日常の中で、小さい感動を見つけて
それを咀嚼して生きる。
今はそれがベターな生き方なのかもしれない。