アスペルガーの自分と脱コル~生きてきた世界の違い~
私は社会人の女だが、これまでの人生で、「可愛くならなきゃ」「女らしくしなきゃ」と思ったことがほとんどない。
小さな頃から、いわゆる“女の子のもの”に興味がなかった。弟たちとチャンバラごっこやサッカーで遊び、日曜の朝には戦隊ものや仮面ライダーを観るために飛び起きて、サンタクロースに願ったクリスマスプレゼントはハリケンジャーの変身グッズだった。小中学生の頃は親が選んで買ったものを言われるがまま着ていたが、自分で服を選ぶようになるとジーンズやメンズのデザインのシャツを着るようになった。同級生から「女の子なのに」「女の子なんだから」と言われたことは何度かあったが、「自分は女の子だから」と意識する心理や理由がまるでわからなかった。
あくまで私個人の推測だが、私がこのように育った理由の1つに、私がアスペルガーだったことがあると思う。
アスペルガーとは、発達障害の1種で、空気を読むことや察することが苦手な障害だ。
人間は環境への適応能力が高いといわれている。この適応能力には「空気を読む」、すなわち自分が生まれ落ちた社会の暗黙の了解やルールを察し、それに従い、社会に順応する能力も含まれている。定型発達(発達障害ではないこと)の子どもの多くは、社会に順応しようとして、とても早い段階から空気を読んで成長していく。このときの「空気」には、「女の子は〇〇を好むもの」「男の子は××を好むもの」などの社会の風潮も含まれる。もちろん全員ではないが、子どもたちの多くは、周囲の大人たちの何気ない言動や、絵本やテレビ番組から敏感に「女の子/男の子とはこういうもの」という空気を察して、自分もそれに従おうとする。幼稚園児にもなれば、「赤は女の子の色でしょ!僕は男なんだから赤なんて嫌だよ!」と主張する男児も出てくる。
しかし、空気を読む能力が生まれつき低いアスペルガーの子どもは「女の子/男の子とはこういうもの」という空気を察さないか、もしくは察するのが遅くなる傾向にある。察さなければ、「自分は女の子/男の子だから、女の子/男の子らしく〇〇しなきゃ」という意識が働くこともない。
私は典型的なこのタイプで、自分が女だからといって、いわゆる“女の子っぽいもの”を身に付ける必要性を感じたことがほとんどないし、“女の子っぽくない”自分を恥ずかしく思うこともゼロに近かった。
このことが、私と私以外の女性たち(もっと正確に言えば、定型発達の女性たち)の間に、大きな溝を生んでいるのではないかと思うことがある。
小さな頃から「女の子はこういうもの」という空気を肌でピリピリと感じてきて、それに順応しようと頑張ったり、順応できずに後ろめたい気持ちを抱えたりしてきた女性と、「女の子はこういうもの」という空気を感じずに育ったアスペルガーの自分とでは、生きてきた世界、見えている世界が違うのではないだろうか。
脱コルの難易度に関しても、同じことが言える。小さな頃から「女の子はこういうもの」という空気を感じてきて育った女性にとっての脱コルの難しさと、「女の子はこういうもの」という空気をほとんど感じずに育った自分にとっての脱コルの難易度は、全く違う。
そのような状況下で、私が「自分は脱コルを実践している」と言えるのか、「脱コルをしています!」と胸を張ることができるのか、大いに疑問だ。前述のように、私は「コルセットを付けなければならない」という圧力の影響を、アスペルガーの性質ゆえにほとんど受けていない。また、脱コルをしようにも、私はもともと短髪・ノーメイク・眼鏡・メンズ服のスタイルで、そんな自分のことを気に入っていて、こういうスタイルの自分も正真正銘の女だという認識がある。
だが、脱コルと言えるかどうかはともかくとして、私がいまのスタイルを継続することには意味があるかもしれない。「女の子はこういうもの」という空気を肌でピリピリと感じて生きてきて、これからそれに抗い脱コルを実践しようとしている女性たちを、「私みたいに、コルセットなしで普通に生活してる女性もいますよ」と身をもって元気づける意味が。
今年の秋、私の友人の結婚式がある。その結婚式に、私はパンツスーツで出席する予定だ。華やかなドレスや着物ではなく、パンツスーツで。