2024 / 04 / 25にオープンしたばかりの昭和館。以前訪れた時にはお豆腐屋さん?(お魚屋さんだったようです)のようなお店でしたが一変、中にはぎっしり昭和らしさの詰まった煙草文化を中心とした展示でした
2023年からの「昭和レトロのまちづくり」一環で建てられたようです。
二人の解説員さんがいらっしゃってとてもフレンドリー(お一人は所有者の元お魚屋さん)
まろにえーるのポストカードとゆずものステッカーをいただきました。
「たばこは市(区、町、村)内で買いましょう」、「たばこは心の日曜日」は1949年大蔵省専売局から独立した日本専売公社のキャッチフレーズ
以前(2023年)に茂木散歩した時はまだお魚屋さんでした
収集家さんや当時の関係者の方がコレクションを寄託されているようです
いまでは広告媒体はインターネットが主流ですが、このころは広告と言えばやはり煙草の包装だったようです。
工場の写真がプリントされているものもありますね
魚遍の漢字が書かれたものはどこの広告なんでしょう…?
茂木工場 「煙草の歴史」
展示されていた茂木工場の年表パネルを軸に専売公社について、まちと煙草の関係について調べていきます。
たばこの官営化
もともと南蛮貿易で入ってきた煙草ですが、当初は禁令がしかれつつも、流行し、徐々に庶民もキセルで煙草を吹かせていたようです
そして百年ほどのち徳川家綱が公式に屋内での喫煙を許可。江戸城内でも部分的に認められたということは、どのぐらいの人々がたばこの匂いをまとっていたのでしょうか。当時は毎日シャワーなんてなんてないはず…。
明治29(1896)年 葉煙草専売法公布
やはり大きな財源として目をつけられた煙草。このころもすでに茂木には煙草の生産が定着していたのでしょうか?
最近大人が巻きたばこを吸わなくなったから子供があこがれなくなったという理由で、タブレット状のココアシガレットが発売されているようです。
明治30(1897)年 茂木煙草専売所設立
大正期 キセルの出需品、きざみ煙草がシガレットに代わっていった
大正12年 その需要を上回るほどに。
パイプ→キセル→口づけたばこ→両切りたばこ→加熱式たばこと変遷しているわけですね
ちなみにパイプとキセルの違いは単にパイプが日本に入ってきて、それより小さくて加工のしやすいキセルがつかわれたそうです。
明治30(1897)年10月 常陽銀行笠間支店として建てられた茂木銀行
徐々に煙草の需要が高まっていく1900年代に乗じて専売所で生産した葉煙草を那珂湊へ出荷していた。
近辺では製糸業は他県より弱く、煙草が大きな資本を担っていたことが、県内の煙草生産地(那珂川流域)が1920年までには9件銀行が設立されていたことからもわかる。
明治32(1899)年 茂木専売支局へ改名
明治37(1904)年 煙草専売法
煙草専売局へと改称
その下部組織として葉煙草収納所(全国20箇所)
煙草製造所(全国5箇所)を設置した
このころ同じく大蔵省にて樟脳事務局、塩務局がつくられたがその数はそれぞれ5か所、22か所に留まり、二年後さらに煙草販売所を全国に14箇所設置
煙草産業の隆盛がうかがえる。
大正12(1923)年 改名した宇都宮地方専売局茂木出張所、新工場が関東大震災の被害を受ける
昭和52(1977)年 宇都宮工場と統廃合
平成1(1989)年 たばこ神社創建
2023年2月時、蝋梅が見事に一面に咲き誇っていて芳香が漂っていました
現在の煙草産業
西城八十
「青い山脈」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)で歌われる景色は第二次世界大戦中昭和19年1月に下館町(現・筑西市)東京市から疎開していました。
昭和20年5月に空襲で娘婿の両親の住む大森の家家が全焼。三井家の両親を下建に迎え、茂木に家をもたせます。
その後も三井家が北京から帰り、共に住んだのも下館でした。
別の説
・日光山
・六甲山(作曲家)