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もてぎ昭和館と煙草専売公社について。ここが「青い山脈」のモデル地?


昭和を思わせる万国旗や飲料のホーロー看板

明治39年(1906年)に八幡製鉄所(福岡県)でブリキ板の工業生産が開始されるまで、ブリキ板はすべて輸入に頼っていました。国内での大量生産が始まると、ブリキ板にガラス絵の具で絵柄を印刷した「ホーロー看板」が登場します。

秋田県立博物館/古イイ看板
タバコ屋さんの横には「たばこは心の日曜日」

2024 / 04 / 25にオープンしたばかりの昭和館。以前訪れた時にはお豆腐屋さん?(お魚屋さんだったようです)のようなお店でしたが一変、中にはぎっしり昭和らしさの詰まった煙草文化を中心とした展示でした

2023年からの「昭和レトロのまちづくり」一環で建てられたようです。

二人の解説員さんがいらっしゃってとてもフレンドリー(お一人は所有者の元お魚屋さん)
まろにえーるのポストカードとゆずものステッカーをいただきました。

「たばこは市(区、町、村)内で買いましょう」、「たばこは心の日曜日」は1949年大蔵省専売局から独立した日本専売公社のキャッチフレーズ

以前(2023年)に茂木散歩した時はまだお魚屋さんでした

 いよいよ「もてぎ昭和館」が明日30日(土)、正式オープンする。場所は茂木町仲町の湊屋鮮魚店さんをお借りしたが、先日27日関係者にご参列いただき開所式を執り行った。

 私は、訪れてくださった方が昭和にタイムスリップし、昭和の面影を感じながら、自分の中の昭和を思い起こし、語らってくれる場になってくれればと思っている。また、中心市街地周遊観光の拠点となることも目的としている。

栃木県茂木町長の日記 3月29日号
茂木町のマスコットキャラクター「ゆずも」
ゆずが特産品らしい
奥に見える茶色の旧商店は駐車スペースとなってしまっていました
日用品が陳列されていました。この時は営業されていたのでしょうか?
どうやってつかっていたんだろう?

収集家さんや当時の関係者の方がコレクションを寄託されているようです

当時の従業員の方の未使用の制服
歴代の広告付きハイライト

いまでは広告媒体はインターネットが主流ですが、このころは広告と言えばやはり煙草の包装だったようです。
工場の写真がプリントされているものもありますね
魚遍の漢字が書かれたものはどこの広告なんでしょう…?

茂木工場 「煙草の歴史」

展示されていた茂木工場の年表パネルを軸に専売公社について、まちと煙草の関係について調べていきます。

茂木工場のあゆみと社会事情/展示パネル

たばこの官営化

明治9(1876)年に施行。営業税にプラスして、各商品に添付した印紙から税金を徴収した
税収入の増大を図り、明治31(1898)年に施行。原料の葉たばこを国が買い上げ
明治37(1904)年7月に施行。「たばこ」の製造から販売までが国の管理で行われるようになった

専売化された「たばこ」 | JTウェブサイト (jti.co.jp)

もともと南蛮貿易で入ってきた煙草ですが、当初は禁令がしかれつつも、流行し、徐々に庶民もキセルで煙草を吹かせていたようです
そして百年ほどのち徳川家綱が公式に屋内での喫煙を許可。江戸城内でも部分的に認められたということは、どのぐらいの人々がたばこの匂いをまとっていたのでしょうか。当時は毎日シャワーなんてなんてないはず…。

明治29(1896)年 葉煙草専売法公布

明治29年3月法律第35号をもって公 布され,同31年/月から施行された。この法律の大要 は,耕作者が収穫した葉たばこはすぺて政府が収納し, これに一定の収入率を乗じて,民間のたばこ製造業者に 販売しようとするものである。したがづて耕作者は,収 穫した葉たぱこを自家消費したり,業者に直接売却する ことを禁止され,製造業者は政府から払下げを受げた葉 たぱこでなげれぱ,原料として使用することが出未ない ことになった。

葉たばこ専売制度の確立過程 耕作地区域の設定と耕作制限について 中 尾 鉱(農林経済学研究室)

このころ大蔵省におかれた大蔵省専売局1949年に分離する日本専売公社の前身)が食塩・樟脳・煙草・アルコールなどの専売業務を担当
善国に61箇所「煙草専売所」設置
同年11月1日、大蔵省の外局として葉煙草専売所を管轄する専売局が設置され、局長、鑑定官、属、鑑定官補が置かれた。

大蔵省専売局/Wikipedia

やはり大きな財源として目をつけられた煙草。このころもすでに茂木には煙草の生産が定着していたのでしょうか?
最近大人が巻きたばこを吸わなくなったから子供があこがれなくなったという理由で、タブレット状のココアシガレットが発売されているようです。

明治30(1897)年 茂木煙草専売所設立

大正期 キセルの出需品、きざみ煙草がシガレットに代わっていった
大正12年 その需要を上回るほどに。

一方「紙巻たばこ」においても変化は起こり、昭和5(1930)年には「両切たばこ」の製造数量が、明治期より人気を博していた「口付たばこ」を上回ります。

こうして昭和の初期には、人々の嗜好の変化と人気に応じて続々と新しい銘柄の「たばこ」が世に登場することとなりました。

専売化された「たばこ」 | JTウェブサイト (jti.co.jp)

パイプ→キセル→口づけたばこ→両切りたばこ→加熱式たばこと変遷しているわけですね
ちなみにパイプとキセルの違いは単にパイプが日本に入ってきて、それより小さくて加工のしやすいキセルがつかわれたそうです。

明治30(1897)年10月 常陽銀行笠間支店として建てられた茂木銀行

1906(明治36)年調査とされる「港煙草沿革誌」には港町(現那珂湊)が集荷していた葉煙草の範囲が示されている。それによれば茨城県内では太田、大宮、石塚、長倉などであり、栃木県では茂木、烏山、大田原があげられている、

19900~1940年における茨城北部を中心とした地方銀行の合併と店舗分布 川崎俊郎/pdf

このうち長期にわたって集荷圏に入っていたのは太田と大田原、小野新町であり、いずれも明治初年から1904(明治37)年までは煙草を港町に出荷していた。(中略)煙草の壱は太田及び大宮でそれぞれ月6回の割合で開催されていた。港町の煙草製造業者は、その市で葉煙草の買い付けを行った。また、大田原、馬頭、烏山、石塚、長倉などから煙草商が港町まで那珂川の水運で煙草を送り、これを港町の煙草製造業者が買い取ることも明治以降は行われるようになった。

19900~1940年における茨城北部を中心とした地方銀行の合併と店舗分布 川崎俊郎/pdf

徐々に煙草の需要が高まっていく1900年代に乗じて専売所で生産した葉煙草を那珂湊へ出荷していた。
近辺では製糸業は他県より弱く、煙草が大きな資本を担っていたことが、県内の煙草生産地(那珂川流域)が1920年までには9件銀行が設立されていたことからもわかる。

明治32(1899)年 茂木専売支局へ改名

1899年(明治32年)5月1日、葉煙草専売所が廃止され、その機能を担う専売支局を全国56箇所に設置した

大蔵省専売局/Wikipedia

明治37(1904)年 煙草専売法

煙草専売局へと改称
その下部組織として葉煙草収納所(全国20箇所)
煙草製造所(全国5箇所)を設置した

煙草の収納、製造、販売、取り締まりなどの専売事業の実施機関として、同年5月24日に煙草専売局官制が公布され、従来の専売局が廃止された。その分掌は、第一部(収納、販売、輸出入、回送、監査の各係)、第二部(調査係、鑑定係)、第三部(原料、作業、機械、調整の各係)、第四部(調査、主計、会計、文書、秘書の各係)であり

アジ暦グロッサリー-煙草専売局

職員は、下部機関も含めて当初は局長以下高等官55人、その他1643人で発足したが、その後人数の増減や行政整理がなされ、責任者は局長から長官へと名称変更がなされた。専売を統一するために、1907年9月25日専売局官制が公布されたことにより、煙草専売局は廃止され、その業務は新しい専売局に引き継がれた。

アジ暦グロッサリー-煙草専売局

翌05年に現在の茂木駅北西に開設した「茂木煙草製造所」で刻みたばこの製造が始まった。戦後は両切りの「新生(しんせい)」やフィルター付きの「ハイライト」などの製造で親しまれた。450人の従業員がいた日本専売公社茂木工場が宇都宮市の北関東工場に77年2月に統合されるまで、70年以上茂木町産のたばこを世に送り出した。

わがまちの変遷 茂木のたばこ 繁栄支えた栽培と製造|県内主要,地域の話題,経済|下野新聞「SOON」ニュース|わがまちの変遷|下野新聞 SOON(スーン) (shimotsuke.co.jp)

このころ同じく大蔵省にて樟脳事務局、塩務局がつくられたがその数はそれぞれ5か所、22か所に留まり、二年後さらに煙草販売所を全国に14箇所設置
煙草産業の隆盛がうかがえる。

大正12(1923)年 改名した宇都宮地方専売局茂木出張所、新工場が関東大震災の被害を受ける


年代不明の工場航空写真

昭和52(1977)年 宇都宮工場と統廃合

平成1(1989)年 たばこ神社創建

豊受大神,二宮尊徳翁,大巳貴命,田心姫命,味耜高彦根命

ご由緒

昭和30年(1955年)に創建。かつて茂木の町は葉たばこの一大産地であり、専売公社(現日本たばこ産業株式会社の前身)の茂木工場がありました。このたばこ神社は、もともと茂木工場内に祀られていたといい、工場の拡張工事にともなって現在地に遷座しました。しかし、外国産たばこ葉の流入にともない、茂木の葉たばこ耕作は次第に衰退。そして1977年に、茂木工場は宇都宮工場に統合されて廃止されてしまいます。平成元年に、産業振興の守護神として、日光二荒山大神(大巳貴命,田心姫命,味耜高彦根命)を勧請して合祀。現在でも地元商工会を中心として祭祀が続けられています。

ホトカミ/たばこ神社の御由緒・歴史

2023年2月時、蝋梅が見事に一面に咲き誇っていて芳香が漂っていました


現在の煙草産業

翌05年に現在の茂木駅北西に開設した「茂木煙草製造所」で刻みたばこの製造が始まった。戦後は両切りの「新生(しんせい)」やフィルター付きの「ハイライト」などの製造で親しまれた。450人の従業員がいた日本専売公社茂木工場が宇都宮市の北関東工場に77年2月に統合されるまで、70年以上茂木町産のたばこを世に送り出した。
一方、葉タバコ栽培に土地が適していたことで熊本や神奈川と並ぶ日本有数の産地に上り詰め、戦後の町の農産物出荷額は昭和40年代まで葉タバコが第1位を占めた。県内一の産地だった旧中川村だけで47年には耕作人員812人が210町歩(=約208ヘクタール)で栽培していたという。(中略)
 しかし高度成長期を迎え、農家の労働力が工場勤務に流れると65年をピークに葉タバコ生産は急激に減少。機械化が比較的容易なコンニャクや、ほだ木になるクヌギやコナラを生産する里山林が広大に広がり、シイタケの生産に移った。今は町内で葉タバコを見ることはできない。

わがまちの変遷 茂木のたばこ 繁栄支えた栽培と製造|県内主要,地域の話題,経済|下野新聞「SOON」ニュース|わがまちの変遷|下野新聞 SOON(スーン) (shimotsuke.co.jp)

真岡鉄道敷設工事は、明治40年12月15日より、下館ー真岡間、真岡ー七井間、そして、七井ー茂木間の3工区にわたり順次行われ、大正9年12月15日、下館ー茂木間の全線が開通した。歴史家・大町雅美先生の「栃木県鉄道史話」を読むと、私たちの祖先が幾多の困難に遭遇しながらも、「地域発展の為に何としても鉄道を」という強い意志をもって血のにじむような努力を続け、真岡線全線開通を成し遂げたかを知る事が出来る。

栃木県茂木町長の日記 12月22日号

西城八十

西條八十の見た「青い山脈」/展示パネル

「青い山脈」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)で歌われる景色は第二次世界大戦中昭和19年1月に下館町(現・筑西市)東京市から疎開していました。
昭和20年5月に空襲で娘婿の両親の住む大森の家家が全焼。三井家の両親を下建に迎え、茂木に家をもたせます。
その後も三井家が北京から帰り、共に住んだのも下館でした。

別の説

・日光山

名曲「青い山脈」日光の山々説浮上 「茂木からの眺め」提唱 茂木学の中村さん、作詞西条八十との縁考察
・45年に長女の嫁ぎ先の三井家の両親を茂木町小井戸の荒橿神社社務所に疎開させた
・その近所の小口家にフランスから持ち帰った蔵書を預けた

下野新聞社「SOON」ニュース

・六甲山(作曲家)

梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴のはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちににわかに曲想がわいてきた…。

服部良一先生の著書ぼくの音楽人生 エピソードで綴る和製ジャズ・ソング史日本文芸社

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