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音短大卒としてのここまでの道のり

人生でたったの一度、正社員として働いた時期はあまりにも短く、音短大を卒業してからのたった2年にも満たない期間でした。
若かった。真っ直ぐで何のプロテクターもシールドも持たず、自分自身のありのままで一生懸命で。
素手で色んな見えない敵と戦わなきゃならなくて、救いの手を求める余裕すらなかった。そう丁度、この
物語の女の子のように。抗えない運命ならそれに従うより他ないんだし、自分にはどうする事だってできやしないのだから。

そんな時に、私の癒しは、音楽と本だった。そんな時は男も要らない 笑
会おうと言われても、会いに来ても、絶対会いたくなかった。今思えばあれは、本当には相手のことそこまで好きじゃなかったんではないかと思う。
好きなら仕事辞めてとっとと結婚してるわ。
女って、そういうとこあんまり上手に両立できないんだと思う。いやできる人も居るんだろう…私はできなかったな。そういう相手にはまだ巡り合えなかった。
一生懸命目の前にある仕事をやっていくしか。それが一番の癒しになっていたかもそれないのに、周辺のしがらみには苦しめられていた。職場ではちょっとした職場内のイジメ、家庭では親のこと。
仕事帰りに、1人レンタルCDショップに必ず立ち寄り、直感だけで選び、知らない曲を貪るように聴いていた。洋楽が殆どで、クラッシックも。クラッシックは、音大出として、凡そ知っているであろう有名な曲を知らなすぎたから、聴き漁りました。まるで、『足長おじさん』の本の中に出てくる主人公ジルーシャ•アボットが、孤児院出身であるために大学に入って、他のみんなが当たり前に知っているメーテルリンクの『青い鳥』の話題にすらついていけず、「その方、何年生ですの?」と聞いてしまって大恥をかいた後、夜中に消灯を過ぎてからも内緒で本という本を読み漁って自分の無学を補う努力をしたという、あれの様に私も楽曲について無学でしたので、
有りとあらゆるクラッシックの名作を聴き漁りました。
本を読む暇はあまりなかったけど、その頃は、孔子の論語がなぜか読みたくなったり、サリンジャー、リンドバーグ夫人の名著書『海からの贈り物』、村岡花子訳の『赤毛のアン全巻』を少ない給料で二冊づつ買い揃えたり。楽譜も買わなきゃならなかった。音大生なら普通に持っているヘンレ版や原典版が、学生時代は買えずに全音版でレッスンを受けていたので、欲しかった。
大体あんな貧乏な家から音大に入る生徒がいたんだろうかというくらい夢のない家だったのだから。
下宿には、ピアノと布団とオーブントースターとちゃぶ台とやかんの他何一つなく、家から持って来た贅沢品はオーディオくらいで、ピアノは免税の免という金文字を丸で囲んだ印が刻まれていて、音大生の恩典価格で渋々買って貰えたピアノが、壁につけて置いてあった6畳一間にキッチンとトイレ、風呂は共同。
後で送るからねと親に言われていた家電用品は、なかなか届かなかった。買えなかったんだろう。ゴールデンウィークに初めて帰省して親と買いに行った。
卒業も危うかったな。
途中学費が払えてなく、成績が出して貰えず、最後の半年は卒試もあるのに、私のレッスンの時にはドアに休講の紙が貼り付けられていたことが1ヶ月程続いた。
結局払ったんだろう。レッスンが受けられるようになり、卒試も受けられた。学科の試験はすこぶる良く、実技はというと、やはりそこそこだった。主科の門下の先生は、露骨にエコ贔屓する気難しがり屋で有名な怖い人で、無骨な冷たい音で弾く先生で好きじゃなかった。普通は、音高、音大とエスカレーターの生徒以外は、個人的に門下について、何年もお月謝を落としていないと、入試時に出す書類に師事している大学内の先生の名前を書けない。入試時までに既に人気のある先生に個人的に入門している人は、大学入学後もその先生の門下として名前を書けるというわけだ。県外から受験した私にそんな先生がいらっしゃるわけもなく、振り当てられた知らない先生は、悪評高き不人気のその先生だったという事だ。歯に衣着せぬ物言いの青いレンズの眼鏡の奥に少し優しそうな垂れ目がちのその目は、優しいのか変人なのかわからないような威光を放っていた。
私が持って来た楽譜を見て、相手にもできないわ、という言い方で、卒試の時はピースでもいいから、先生の指定したものを買うように言われた。
ピアノ音楽史の授業では、著名な先生が客員教授として来られていて、ヘンレ版やウィーン原典版、ベーレンライター版など、学生にとってはいちいち高い楽譜を求められた。
そんな、苦い思い出もあって、自分でお給料貰えるようになったら、兎にも角にも、楽譜を揃えようと決心していたからだ。

練習スタジオのスタンウェイ

苦学生というと、なんとなく聞こえも良いけど、私にとっては劣等感、屈辱感しかない学生生活だった。同じ高校から進んだ別の科の四年制大の方に進んだ友達がよくしてくれて、その子とは今でも付き合っている数少ない友達の1人。

バイトもしていたので、練習もそんなにできたかといえば、毎日はしてたけど、腰を据えていたかどうか…どう腰を据えて良いのか暗中模索の練習だった。どう弾けば先生にけなされないか。そんなことばかり、ビクビクして弾いてたな。試験曲もレコード買って聴かなきゃ初めて聴くような物ばかりで、そちらも、人に借りたりしていた。副科の楽器も、楽器購入の必要のないお箏に決めた。希望者が多かったけど、無理やり割り込んだ。私にはここしかないという危機感で。私のせいで諦めて別の楽器に行った人もいたかもしれない。笑
だから、働くようになって一番に買ったものは、楽譜の他に、リヒテルのバッハ平均律曲集のCDだった。
リサイタルにも行った。アルゲリッチやブーニンが地元に来たから。
地元に帰ってピアノ講師として就職して、ピアノを教えるようになって、こんなんじゃあ、先生の風上にも置けないと自分が自分を批判していたから、知り合いに紹介してもらった地元の音高の先生に就いてバッハ、ベートーヴェン、ショパンを習いに通い始めたり。子供に教える新しい教本が刊行されれば、セミナーにも行ったり、大学のサマー講習会にも泊まりがけで復学したり、本当に必死というかクソ真面目というか、危機感や劣等感、焦燥感だけで練習しながら仕事していたので、そりゃ、ちょっと人間関係でうまくいかないことあると、一挙に鬱にもなる。
そんなこんなで、一年半くらいで辞めてしまったその職場を離れた後は無謀にも生徒をかなり引き連れた形で開業。私が辞めると話すと、就いて来てくれた生徒や紹介や、他にも法人への非常勤など紹介してくださる人もいたりして、開業したばかりなのに三十人という生徒数だった。
今思うと奇跡だ。
この本の12人の神様が私を助けてくれたような出来事が次々起きたのだ。
その時、念願のグランドピアノもローンを組んで買いました。免税の免の字が入っていないカワイの一番小さなものでしたけど、中古でない新品を。
数年して生徒の親が紹介してくれた今の夫と結婚しました。
このように、私のピアノ人生は、音大に入る前も入ってからも、卒業してからも決して裕福なご家庭のお嬢様の様ではなく、そんな私でも自分に自信が持てたのは、音大までに受けてきた自分のピアノの先生からの音楽教育が確かなものであったということです。
H先生が、国立音大の音中、音高から音大に入られた方で、ピアノの演奏も人間的にも大好きで憧れる方であられたことが、私の中で動かぬ大きな存在だったし、教えを受けた事がどこに出ても恥ずかしくない内容だと分かっていたから。元に、私は今ピアノを教える仕事でそれらの全て通用しています。
子供の頃のT先生は、手広く事業をされる実業家になられて、手が回らなくなったからその先生に私を託されたのですが、そのご縁が私の全てでした。そして、H先生からのご縁で私の生徒になったKさんのご両親が私の夫を紹介してくれたんですから、ご縁というものは繋がっていますね。
子供の頃も、ピアノを習っていても、両親の離婚で一時期ピアノが家になく、習えない時期も2年ほどありました。後に母親は、新品の一番小さなピアノを買ってくれましたが、
それは音大に入るまでにハンマーのフェルトが潰れてしまうほど練習しました。6年持たなかったわけです。
そんなピアノばかり弾いていたので兎に角耳が肥えていませんでした。
H先生もマンション暮らしでグランドピアノではなかったので、発表会の時しかグランドピアノを弾いてないので、音大でのレッスンや試験が緊張して仕方ありませんでした。
音大といっても、短大の方しか選べませんでしたので2年間でした。
初めてグランドピアノを持てた時は、本当に夢の様でした。
その頃は、オンボロアパートから新築分譲マンションに引っ越せていた母親の家の一室にピアノを入れたのです。
私の母は、不動産の土地建物取引仲介業を営んでいたので、その頃バブルで仕事も多く、副業として夜スタンドもしていました。カウンターしかない小さなスナックです。
そこに、時々夜は私は働きながらも借り出されていたので、それが嫌で嫌で、自分の親を恨みました。
別に、男の人にいやらしいことを言われたりされたりする様な経験はなかったのですが、お酒を飲むという大人の常軌を逸した雰囲気が嫌いでした。カラオケの大音量も嫌いだし、変に盛り上げないといけないわざとらしい接客も、顔には出さなかったけど大嫌いでした。
それでも、ちゃんと、市の新人演奏会にも出て、私は偉かったな。
なんか、今思い出してみて、健気に頑張ってピアノの世界でなんとか生きていかれる様に、自分なりに頑張ってたなぁと思うわけです。
さて、
運命的には逆境と言える生い立ちやピアノ人生でしたが、今こうして、少なからずも生徒さんに恵まれて、好きな仕事ができていることは、何よりもの幸せです。
今では膨大な量の音楽を知っていますし、人にお勧めできるだけの知識も増えました。
好きな楽曲や演奏家が有りすぎて、選りすぐりとまではいきませんが、その日の気分で私が聴いているお勧めの音楽をnoteでお知らせしたいきたいと思います。
今日最初に挙げたブラームスは、今譜読みをしています。
門下は違いましたが、同じ下宿にいた四年制の大学のピアノの先輩が、この曲を暑い夏に譜読みしていて、やっとメトロノームで一定のテンポにして一音もミスなく弾ける様になったと、弾いて聞かせてくれたのがこの曲を知った初めの思い出です。ゆっくりだし、難しく聞こえないけど、弾いてみると、めちゃくちゃ難しく、音大生が習う曲として、正当なレベルだとわかります。
クララシューマンの為に愛を伝えた曲と言われており、シューマンの献呈と並んでクララへそれぞれが捧げたの愛の曲だそうです。
私が共感できるのはブラームス。
最近、他のインテルメッツォと共によく聴いています。
重めですが、よかったら聴いてみてください。

今日は連載にしてもいいほど長いお話でした。
最後までお付き合いいただきました方、おられましたら、本当にありがとうございました。

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