尾形百之助の役目について

最初に

つい先日ゴールデンカムイを一気読みし、最後の最後で尾形百之助というキャラクターに心を奪われてしまいました。
気付けばぐるぐる尾形について考えてしまうため、思考の整理のために考えたことをまとめていこうと思います。考察と呼べるようなものではありませんが、自分の中で作中の尾形をなるべく再構築するために尾形を理解したいという気持ちで書いています。

聖書の言葉から尾形に起こったことを捉える

尾形は304話で「無価値の証明」が自分の目的だと言っていますが、これは尾形の役目(真の目的)ではありません。ゴールデンカムイでは役目が残っているキャラは死なないからです。
尾形は祝福や光というキリスト教的ワードを使用しています。また、「アシリパは俺に光を与えて俺は殺される」(310話)のコマなどは天を仰ぐ宗教画のような雰囲気も感じられますので、聖書を引用しながら尾形の役目について考えてみます。
※ 尾形がキリスト教を信仰していた描写はありませんし、ここではモチーフとして用いられている、あるいは尾形がどこかで聞きかじったキリスト教の考えの一部を借りてきた、という前提で考えます。
※ このために初めて聖書やキリスト教について調べました。色々解釈が間違っている可能性があります。

祝福とは

尾形の脳内では度々「祝福」という言葉が出てきます。
キリスト教では、祝福とは神からの恵みを受けることです。人間は本来神から祝福されて生まれました。
「神はまた、彼ら(人間)を祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記ー1章28節)
しかしアダムとイヴは祝福を拒否し、アダムの息子であるカインは弟のアベルを殺し(最初の殺人)、神からの祝福は失われてしまいます。カインとアベルは親の愛を巡って起きた兄弟間の殺人であり、これは正に尾形と勇作のことです。尾形は弟殺しを父幸次郎に明かし「呪われろ」(呪いとは祝福の反対です)という言葉を得ます。

聖書のテーマはどうすれば再び祝福を受けることができるか、です。
祝福は自分で得ることはできません。
「心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。」(申命記ー29章19-20節)

祝福を得るためにどうすれば良いかは、こう記されています。
「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカー6章27-28節)
誰かから祝福を得たいのであればまず自分が他者を祝福せよ、ということでしょうか。
しかし尾形は他者を、敵を、愛することはできません。何故なら全ての人間は無価値であるとして殺してきたからです。

光を与えられることの意味

聖書では、人に祝福を与える者は光、あるいは光の子と称されています。
「神は光である。」(ヨハネの手紙一1章5節)
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの手紙一8章12節)

更にこのような記述もあります。
「あなた方はみな光の子供、昼の子供だからです。私たちは暗やみの者ではありません。」(テサロニケの信徒への手紙一5章5節) 
これは勇作の台詞「罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいていいはずがないのです」と同じです。勇作は光の子でしたので、最終的に尾形は勇作と重なるアシリパに光(つまり祝福)を与えられました。

光を得るとどうなるのでしょうか?
「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」 (エフェソの信徒への手紙ー4章10節)
尾形は光を与えられて、善性(=自分は罪悪感を感じる人間であるという真実)を取り戻しました。

尾形の最期(地獄について)

地獄という言葉は作中でキリスト教的な意味で使われている訳ではないと思います。しかしキリスト教的ワードを使用する尾形が最後の舞台である列車のことを「地獄行きの暴走列車」と呼びましたので、地獄についても少し考えてみます。
聖書にはこうあります。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙ー6章23節)
ここでの死は肉体の死ではなく、永遠の滅び(地獄)のことです。これは神を見ることができない(神の光を浴びることのできない)ことだとも解釈されています。
尾形は肉体的には生きていましたが、光(勇作)を見ることができない(勇作の顔が伏せられている)状態でした。それこそが正に尾形にとっての地獄です。
尾形は結局地獄行きの列車から途中下車しました(肉体的には死んでいますが)。列車から落ちていく尾形の顔は穏やかです。尾形はやっと光を得て、自らの真実を取り戻し、暗闇の地獄から解放されたのでしょう。

【結論】尾形の役目とは

以上を踏まえると、尾形の役目は「自らの善性・真実を取り戻す」ことと言えそうです。そのために尾形は「祝福を受ける(光を与えられる)」必要がありました。
「祝福を受ける」の方を目的とせず手段としたのは、それが受動的な行動であり、尾形の役目として定義するなら能動的な「取り戻す」の方が適していると考えたからです。

尾形は自己完結型の人間です。310話で死んでいった時も、周りにいた杉本やアシリパも尾形が何故死んだのか理解できなかったでしょう。
でも本当に自分の殻に閉じこもり続けたら、尾形は自分の役目を果たせませんでした。祝福は他者から与えられなければならないからです。
尾形が役目を果たせたのは他者(勇作)のおかげであり、尾形にそういった存在がいたことは「よかったなぁ」と思いましたし(勇作的には全然良くないのですが)、救いのあるラストだと感じました。


【余談】 罪について

尾形は罪悪感に囚われています。これは当然勇作(あるいは母、父、宇佐美など310話の脳内尾形劇場に登場する面々)を殺してしまった罪悪感のことですが、キリスト教における罪という観点からも考えてみます。
キリスト教における罪とは「的外れ」であることです。「的」とは神のことでそこから外れているというのは、神に背を向けるということです。

作中で尾形は勇作の幻覚を見ますが、その表情は尾形の死の間際までは伏せられています。この幻想勇作の正体は310話で「罪悪感だ」と明らかにされていますので、シンプルに尾形は罪悪感から目を背け続けていた、という描写です。
ただこの構造は、罪悪感が勇作の姿をしていることで(キリスト教的神も人の姿をしている)神に背を向けた「的外れ」な状態と重なって見えるのが面白いところです。
※もちろん勇作は神ではありません、尾形がそう捉えていたのではないか?という話です。
尾形が勇作をどう捉えていたのかについてはまた別途考えたいなと思っています。

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