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『〈寝た子〉なんているの?見えづらい部落差別とわたしの日常』を読んで考えたあれこれpart1

BURAKU HERITAGEという有志のグループで、
一緒に活動している、友人の上川多実ちゃんのエッセイ本が出た。

私と多実ちゃんは、同じ部落ルーツ当事者であるという点、部落解放運動の影響下で育ったという点は共通している。私は大阪の部落で、多実ちゃんは東京の部落ではない地域で育った。この違いはとても大きい。非常に雑にまとめると、①地域において被差別の立場を持つ子どもの育ちを支えてくれるコミュニティがあったかなかったか、②身近な生活圏の中に部落および部落差別が存在しているということ+差別をなくしていくべきという考えが前提となっていたか否か、という違いだと思う。

主に同和教育をめぐることを書こうと思ってパソコンを開いたのだが、自分の子どものころの振り返りがめちゃくちゃ長くなってしまったので、ひとまず今回はpart1として、しばらく続けて書いていこうかと思う。

「差別をなくす」の意味

私の育った部落には、差別をなくしていくための部落解放運動があった。ここでいう「差別をなくす」ということは心理的差別をなくすことにとどまらず、生活実態にあらわれている"低位性"(貧困や不安定就労率の高さ・低学歴・低学力など)=実態的差別を克服していくということを含んでいる。

大阪(関西)は、部落の数も多く、部落に住む人やルーツを持つ人の数も多い。部落解放運動も活発で社会的・政治的影響力も強く、行政(私の地元でいえば大阪市政や大阪府政)や学校教育の中においても、『差別があるということを前提に、「差別をなくす」ための取り組み』が行われてきた。
(繰り返しになるが、ここでいう「差別をなくす」取り組みには、人権啓発や人権教育だけではなく、実態的差別解消のための様々な施策を含む。なお、格差是正のための施策としては「同和対策事業特別措置法」ができて、全国的に行われてきたが、実際に運用するのは自治体なので、推進状況や認知度には地域差があり、やはり関西は常に"先進地"と呼ばれてきた)

私が子どもだった当時、私の地元には「差別をなくす」ための取り組みがはりめぐらされていた。

子どもの頃の地元の話

保育所・学校

0歳から保育所に入ったが、部落の中にあるその保育所では「差別をなくす」を意識した保育が行われていたし、小学校、中学校も「差別をなくす」教育をやっていた。高校も、中卒者が非常に多く近隣の高校の受け入れキャパも足りていない状況下で部落の人たちが中心になって展開された「地元校設立運動」によって開校されためっちゃ近所の高校に入ったため、高校も同様の理念を持っているところだった(私のおばあちゃんも高校設立運動に参加していたらしい)。学校は人権学習を熱心に行うし、部落の子や在日の子や障害のある子など(当時認識されていた範囲ではあるが)被差別マイノリティの子どもたちの存在を前提に、むしろそこにスポットライトを当てて「仲間づくり・集団づくり」を行なっていた。だから「部落ってなに?」という人は、少なくとも中学校までは周りにいなかった。先生は当然のように部落が何か知ってるし、友達もみんな知ってるし、なんなら「あいつとあいつが部落のやつ」ということも知っている。部落の団地も含め、公営住宅が多い校区だったこともあり、シングル家庭や困窮世帯も少なくない。親の世代に大卒者は少ない。学校にこなかったり授業をエスケープしたり、いわゆる非行や荒れと見られる子どもの状況を「困った子」として見るのではなく、社会課題の現れ・差別の現れ方(「困っている子・困らされている子」)として捉えて、家庭や地域に足を運んで連携し学力保障や進路保障というかたちで差別を乗り越える力を育てようともしていた。(なお、ここでの教育の内容を全肯定はしていない。共感と違和感が両方あり、そのことはまた書きたい。というか教育畑の人間なのでそのことが一番書きたい)

子ども会

地域には青少年会館という大阪市立の施設があって、そこで「解放子ども会」というのが行われていた。私が子どもの頃は部落の子だけが対象で、放課後にそこに子どもたちが集まり、いろんな活動をして過ごすようになっていた(その後、私の弟ぐらいの世代になって、子ども会は部落外の子どもにも開かれていった)。
子ども会の中身は、振り返ると、マジで相当よくできていたと思う。市の施設なので指導員は公務員で安定的な待遇で今思うときちんと体系的な研修を受けて教育や福祉のことを学んでいたのだろうと思う。地元雇用の人が多かったので子どもらの保護者ともガッツリ話ができる。教員志望の学生が「学習会講師」として、勉強を見てくれていて、あれは今でいう『学習支援』だったし、異年齢集団でよくやっていた「Sケン」とか「じんとり」とか「〜じゃんけん」みたいな集団遊びは、今思うとPAとかにも通じるものがあり、遊びを通した『ソーシャルスキルトレーニング』になっていた。サークル活動と称して、絵画とか陶芸とかバンド活動とかそういう選択式のグループ活動もあった。人権学習の機会ももちろんあったし、平和学習も結構やったと思う。
長期休みは毎日朝から夕方まで子ども会があって、昼ごはんは買い出しから異年齢の班活動で子どもたちがつくる(低年齢から食事づくりも含めた身辺自立が求められる子たちが多かったことが影響しているプログラムだと思う)。琵琶湖にキャンプに行ったり、大阪城までサイクリングに行ったり、自転車で広島まで行ったり、博物館とか植物園とかに行ったり、地域のお祭りで出店を出したり、イベントを企画したり...。外国人の地域住民さんが来てくれてインドのサモサとかベトナムのフォーなど、それぞれの国料理つくったり、羊が連れて来られて毛刈り体験させてもらったこともあったな...(笑)
ここ数年、社会体験の格差が叫ばれるようになったが、学力、非認知能力、社会体験etc...学校だけではなく、子ども会活動もまた、格差をなくすことを含め「差別をなくす」ということを相当に意識したつくりになっていたと思う。要するに今いろんなNPOが頑張って担っているような「教育支援事業」がフルパッケージになったものが当時の大阪の解放子ども会であった。高度経済成長の頃に組みあげられた仕組みなので「そんな金どこにあるねん」「なんでそんだけの資源を部落の子ども限定で投入するねん」という人は少ない時代だった+それだけ部落解放運動が影響力・求心力を持っていたのだと思うが、それにしてもすごい。本当にめっっちゃくちゃ手厚かった。私はその恩恵を受けて育った...と今これを書きながら改めて強く自覚した。

なお、時代の移り変わりと共に世論(財政状況も)は変化し、今あの子ども会はもうない。大阪市内の話で言えば、青少年会館なども含め公的な支援が全くなくなったのが私の大学生の頃。もう20年近くになる。地域によっては規模を小さくして手弁当で続けられている。対象を再設定して継続し、むしろ広げられなかったものだろうか。そんなお金はもうこの日本にはないのか...。2020年代にNPOがいろんなところから資金調達してやっているような活動を特に社会的に不利な立場にある子どもたちを対象に「公助」としてやっていた時代があったということは知られてもいいように思う。

※注釈※
解放子ども会自体はもともとは部落の住民による手弁当の「わがムラの子どもらを支える活動」として生まれて育っていったもの。のちに公費がついた。それも目の前の子どもたちの実態からスタートして、上の世代の人たちが必死に必要性を訴えて実現されてきたもの。その辺りをすっ飛ばしてシンプルにずるいとか優遇だと言われると「ちょっと待って」と思う。

地域活動・支部活動

地域活動がとても活発だった。夏祭り、運動会、駅伝大会、文化祭(劇とか歌とか発表する)、もちつきetc...運営の大変さを知った今では、よくあんな数のイベントをやってたもんだなと感心する。
と、同時に多実ちゃんの本にも出てくるがしょっちゅう「集会」があった。部落解放運動を進めてきたのは、部落解放同盟という団体で、全国組織。各部落ごとに支部組織があり、うちの親は支部員であった。というか、多分当時はほとんどの地域住民が属していたと思う。「集会」の中身は差別をなくすための社会運動をするための勉強会であったり、会議であったり、社会発信・PRするための集まりだったりするのだが、それをざっくり「集会」と呼んでいた。夜に親が「集会」に行くので、子どもも小さいうちは付いていって、同じように連れられてきた子ども同士で遊ぶ。たまに「早朝集会」というのもあって、それは地域住民が出勤前や学校に行く前に集まって、差別をめぐる社会状況や取り組みの必要性を確認・共有するような会だった。
楽しいイベントやお祭り等も含めて地域活動はイコール支部活動で、いろんな協働的な取り組みを通して関係構築をして、「支え合い」ができるようにする、ということだったのだと思う。
また、団地に住んでいたので、ご近所付き合いも濃ゆいものだった。隣のおばちゃんにしょっちゅうおすそ分けって言ってごはん持って行ってたし、醤油を借りるどころか、トイレ借りに行ってたなあ。地域の人たちの顔も名前もたくさん知っていたし、わたしが知らないと思っている人でも「〜ちゃん(母の名前)の子やろ」「〜さん(祖父の名前)の孫か!」とすぐに素性が知られる。
そんな感じだったので、物心つく頃には「わたしは●●(地域名)の子やねん」というアイデンティティが育っていたし、少なくとも小学生になる頃には、ここが部落と言って差別を受ける地域だということもわかっていた。そして「差別をなくすためにうちの地域の大人たちはがんばってるんや」「子ども会は差別をなくすためにあるんや」と認識していた。子ども会に入る際に「子ども会って何するところやと思う?」みたいなことを指導員に聞かれて、「差別をなくす活動をするところ」と答えて、驚かれた記憶がある。苦笑)

「差別はある」「差別をなくす」が当たり前ではない世界で育つということ

私の育った世界では、「同じ部落出身の、顔の見える人たち」がめっちゃいっぱい周りにいたし、その人たちとの、地域生活における結構密な関わりがあり、私はその輪が好きだった。そのこと=コミュニティがあってそこが楽しい・心地いいということは、部落に生まれ育ってたことをポジティブに受けとめさせてくれた大きな要素だと思う。

そして、部落の存在も差別の存在、差別はあかんということも前提で、そのうえで(広い意味で)「差別をなくす」ことを目指していこう、という価値観が基本的には共有されている世界で生きてきた。学校や行政などの発する「公的なメッセージ」もそのスタンスだった。高校生以降、「差別なんてもいないんじゃないの?」と言われたことは私も何度もあるが、その時に私は「前提を共有している世界がある」という基本的な安心感・安全基地がある状態で反論することができる。でも、多実ちゃんはそうじゃなかった。もちろん家庭は前提を共有している世界だっただろうけど、家庭だけじゃ、立つ背にするにはあまりにも心許ないだろうと思う。だから、きっと同じようなマイクロアグレッションを受けても、ダメージの違いが明らかにあるなと思う。
地域社会も、学校や行政も前提(差別の認識と反差別の意思)を共有していることの重要性を安心感を改めて考えさせられる。公的機関や公的な責任のある人が発するメッセージは「その社会における“正解”」を規定する部分がある。(だから、学校教育ってやっぱり重要だなと思うし、政治家のトンデモ発言とかは、やっぱり1つ1つNOって言っていかなきゃいけない)

多実ちゃんが『寝た子なんて』で、いろんなエピソードを通して繰り返し書いていることは、「前提(差別の認識と反差別の意思)を共有していない世界で生きるのがどれだけしんどいか」ということだ。同じ部落出身ではあるけれど、私と多実ちゃんは違う。部落出身者の中で、私はマジョリティで多実ちゃんはマイノリティだ。同じ被差別マイノリティの中にもマジョリティーマイノリティの構造は起こる。無意識に、“部落出身者内のマイノリティ”の足を踏んできたことも少なくないだろうと本を読みながら思わされた。私は、部落出身者の中では、大阪出身で「差別をなくす取り組み」の恩恵をめっちゃたくさん受けてきて、なんならそれほど「気にしない」ことも可能で、「当事者だから講演とかやってるんじゃない」とか言えちゃうぐらい“選択肢”があって、運動のスタイルを考えることができるぐらい“余裕”があって。そういえば大学生の頃、大分の部落に呼んでもらったときに「あんたはそれでいいか知らんけどなあ!」と、年配のおじちゃんに半ギレされたことがあった。今更あの言葉が刺さってくる。(自分が感じたり考えたりしていることを、忖度せずに等身大で語るということは大事だと思っている。ただ、当時の私には大分の部落の人の生きている世界への想像力が欠けていたところがあったのだろうと、率直に思う)

一方で、本の中で北芝のつーとんさんが多実ちゃんを「最先端」と言った話が出てくるが、あれはまさに、と思う。もう私の子どものような世界が残っている地域は大阪であってもほとんどないし、出身地を離れて暮らしている部落ルーツの人はとても多い...というか今現在住んでいる人より、部落外で住んでいる部落ルーツの人の方が多いんじゃないか?とも思える。つまり、多実ちゃんの経験したような状況がむしろ一般化してきている。多実ちゃんの経験や言葉から学ぶべきことは多い。

この本を書いてくれて、まずはありがとうと言いたい。ちなみに、この本を読んで語りたくなったことはまだ全然書き切れていないので、次回に続く…(笑)

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