トライアングル 再び!
(2020年2月20日投稿の別ブログより転載。一部加筆修正。)
何も、過去の三角関係がもつれ、女が斧持って復讐に来たのではない。(「トライアングルとろくでなし」参照のこと)
「TRIANGLE / トライアングル」というタイムループもののシチュエーションホラーである。
監督:クリストファー・スミス、主演:メリッサ・ジョージ、製作:2009年、英豪合作
DVDで最初に見たのは今から7年も前の2015年なのだが(日本公開自体は2011年)、それ以来どこか頭の片隅にずっとこの映画がこびりついていた。そして、2018年3月2日のブログに「Triangle」という別の内容の記事を書いた時、その直後にこの映画の紹介記事を書くつもりでいたのだが、忙しさにかまけてそれっきりになっていた。だが、どうも私の心はこの映画のことが気になって仕方ないらしい。ブログに何か記事をアップしようかと考えるたびに、私のゴーストはこの映画のことを書けと囁くのである。で、これを機にもう一度見てみた。
結果、これは誠にいい映画である。一見B級臭さがぷんぷん匂うが、それは毎度のこと、日本のプロモーションの仕方が悪い。特に日本語のサブタイトル「殺人ループ地獄」、これは良くない。ま、確かに内容は手っ取り早く言えば「殺人ループ地獄」で、的確っちゃあ的確なのだが、これではB級お墨付きのようなものだ。だが、それに惑わされないで欲しい。これは実にいい映画である。傑作とまでは行かないが、かなりの秀作と言ってよい。実際ネット民も Filmarksで3.5、Yahoo!映画 3.5、映画.com 3.7 と、B級臭いこのような映画にしては珍しく、軒並み高評価をつけている。
そして、期待に違わず(たがわず)、実に怖い。
グロや残酷描写はほとんどない。その点に関してはかなりマイルド。死体や殺害シーンはそれなりにけっこうあるが、それほどショッキングなものは少なく、ハードなホラーを見慣れた者にとっては少々物足りないかもしれない。逆に言えば、グロ残酷スプラッター系のホラーが苦手な人でも比較的安心して見ることができると言える。
では何が怖いのか?それは、まさに悪夢のようにループする時間そのものである。この映画には一つ有名な、非常に衝撃的なシーンが一つある。突然現われるその光景には心底ぞっとさせられる。観客はその場面で一瞬にして、この映画の持つ底知れぬ絶望と救いの無さを悟ることになる。見る者を恐がらせてやろうという仰々しさは微塵もなく、あまりにも唐突に、しかもあまりにも自然に、何気なく繰り返す日常の裏の禍々しさというものを、そのシーンは我々に見せつける。見事すぎて芸術的ですらあると言える。監督は、この光景を我々に見せたいがためにこの映画を一本撮ったのではないか、とすら私には思えるほどである。
タイムループものの映画と言えば、まず挙げられるのが「バタフライ・エフェクト」、また最近では「オール・ユー・ニード・イズ・キル」など、比較的傑作秀作が多いが、大まかに言って二種類に分類されるように思える。一つは、何らかの理由または手段によって過去に戻り、その過去を修正し、その修正による変化を学習することで『現在』をより良いものにしようと悪戦苦闘するタイプ。前述した「バタフライ・エフェクト」や「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などはまさにこのタイプ。
もう一つは『現在』に囚われ、『現在』を延々と繰り返す恐怖を描くタイプ。その『現在』のスパンは24時間幅が多いが、その期間は定まっておらず、ある出来事をきっかけに繰り返しが始まるものも多い。中には、ループするスパンが僅か5秒から数十年にいたるまで、登場する全員がまちまちである「アルカディア」という恐怖を描いた映画すらある。いずれにせよ共通するのは、繰り返す『現在』に幽閉され未来に繋がらない恐怖と絶望である。
一つ目のタイプは、現在の悲劇または否定的要素を過去にまで遡り、それを変えることでより良い『現在→未来』を確保したいという人間の普遍的な願望を表しているため、大半の映画鑑賞者はハッピーエンドを望んでおり、そのため(つまり売れるために)作者、または映画の作り手は結末をハッピーエンドにすることが大半である。また、過去に戻り現在を修正することにより恋人を現在の悲劇から救ったり、愛する者との関係を良くしようと試行錯誤を繰り返す類の恋愛ものも必然的に多くなる。概して、必ずしも良い結果に終わらずとも、その繰り返しの試行錯誤から、人生の何か大切なものや教訓を得、最終的にループから抜けだし未来に向かって歩み出す前向きな終わり方をするものがほとんどである。「バタフライ・エフェクト」や「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などはその典型であり、他にもビル・マーレイ主演の「恋はデジャ・ブ」や「アバウト・タイム〜愛おしい時間について」などの万人受けする名作が多い。(最近、邦画でも「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」という面白いものがあった。傑作とまでは言えないが、シナリオがよく練られていて、コメディタッチで非常に明るく楽しい。そして最後は少しほろりとくる。これは秀逸。)
その前者が陽なら後者は陰。現在という狭い牢獄に幽閉され、ひたすら暗い。未来につながる希望がまったくなく、意味もなく繰り返される現在という軛(くびき)からどうしても逃れられない絶望感しかない。それが後者のタイプ。まぁ、それだけでは映画にならないので、ループの出口を求めて主人公は必死にあれこれ無駄な試行錯誤を繰り返し、閉じられた時間に穴を開けようとするのだが、これは私の独断と偏見なのだが、この手の映画作者はそもそも希望だとか救いというものを念頭に描いていない。そんなもの、どーでもいいのである。身も蓋もないが…。最後に僅かに光が見えたとしても、そんなもの付け足しにすぎない。彼らに関心があるのは、主に二つ。一つは、ループする時問の中に巧妙で精緻な仕掛けやプロットを構築し、観客を感心させたり驚かせることを目的とするもの。これはプロットの巧みさを評価されることを主たる目的としているため、映画の良し悪しはかなりの程度、いかに観客を唸らせるような意表をつく見事なドンデン返しを結末に用意できるかにかかっており、そのため、それがハッピーエンドであるかどうかは大して重要な問題ではない。話の都合上ハッピーエンドが良ければそうするし、そうでなければバッドエンドにするだけのことで、そこに人生の意味も教訓的な意味も何もない。もちろん、鑑賞者がそこに何らかの深い人生の、または哲学的な意味を読み取るのは自由であるし、それが映画だけではなく文学美術音楽含めて芸術全般に触れる楽しさ喜びであり、醍醐味である。一般に作者の意図を離れ、鑑賞者の多様で自由な深い考察を呼び込むことが出来るような懐の深い作品は良作と言えよう。
そして後者、陰タイプの二つ目は、時間が際限なく繰り返し、決して未来や希望に繋がらない絶望的な恐怖そのものを描くことを目的としたものである。これは端(はな)からハッピーエンドに関心はない。と言うのも、ハッピーエンドに終ればその恐怖や絶望の味わいそのものが薄れるからであり、芸術家はそういうことを嫌うのである。また多くの場合、この陰タイプの作者は、自らが生み出す際限なくループする世界を、この得体の知れないシステムの中で生きている我々の、矮小化された終わりなき日常の意味のない味気ない繰り返しの縮図または象徴として描いている。つまり、その90分から120分の圧縮された恐怖と絶望を通して、我々の日常や人生そのものが、意味なく与えられた不条理そのものであることを訴えているのである。陰タイプの一つ目の作者も、プロットの中心にタイムループを据えること自体、そのような主題を意識の片隅に持っていると言えるかもしれない。二つ目との違いは単にテーマ性の濃淡の違いだけであろう。
以上のことから、この陰タイプの映画作者は、観客または鑑賞者に救いを与えることに総じて無関心である。普通、人が映画館に足を運んだりDVDを求めたりしようとする時は、一般に、何らかの癒やしや一時の幸福感または分かりやすいカタルシスを求めているものである。このタイプの映画はそういうことに基本的に無頓着なため、たいていの観客または鑑賞者は烟に巻かれたような、置いてけぼりを喰らったような気分になり、見終った後、充足感よりもむしろ欲求不満を抱くことの方が多くなる。結果、評価はそれほど高くならず、一般的な話題にもなりにくく、マニアの間ではよく知られているが一般には知名度が低いままにとどまるものが多くなる。「L∞P《時に囚われた男》」「ARQ: 時の牢獄」「パラドクス」などがこのタイプに当たるように思える。「ハッピー・デス・デイ」という評価の高い有名なループものがある。これは、自分の誕生日の終わりに無気味な赤ん坊のマスクをかぶった殺人鬼に殺され、殺されるたびに一日が巻き戻り、何度も何度も同じ誕生日を繰り返しそして殺され続けるというもので、一見明らかに陰タイプのように思える。だが、自己中で性格は悪いが生きることにひたすら貪欲で力強いその主人公が、殺人鬼の正体を明かそうと必死に試行錯誤する中で周囲との人間関係を見直し、彼女自身も「良い人間」に変っていくという極めて「健全」な映画で、それ故に一つ目の陽タイプのループものだと言える。
さて、毎度のこと前振りが長くなったが、この「トライアングル」、もちろん陰タイプである。陰も陰、陰々鬱々滅々である。とにかく救いがない。しかし映画として非常に練られており、まずは退屈しない。そんな暗い映画やだぁという御仁も、最後まで画面から目が離せないこと請け合いである。他のタイムループものとは仕掛けが一味異なるのである。単に繰り返すだけではなく、繰り返すたびにおぞましい過去が文字通り死屍累々と積み重なってゆく。そして、その繰り返しの中で「自分」が何人も現れ「自分」を殺そうとする。そして、その繰り返し自体が……。
少し出だしを紹介すると、
自閉症の幼い息子を持つシングルマザーのジェスはある日、友人にヨットクルージングに誘われる。彼女は息子を学校に残したままヨットに乗り込むが、彼女も含め6人が乗ったヨットは、外洋に出たところで突然激しい嵐に遭遇する。その際、一人が海に投げ出され、行方不明となってしまう。
嵐が去り、助かった残りの5人は、完全に転覆したヨットの船底になんとか這い上がるが、このままでは食料もなく、ただ大海原を漂流するだけで、やがて命が尽きるのではないかと絶望しかけたその時、どこからともなく大型の客船が姿を現す。5人は大声をあげ必死に手を振り、その船に助けを求める。甲板から一つの人影がこちらを見下ろしているようにも見えるが、何の応答もない。仕方なく5人は自力で船に乗り込む。
奇妙なことに船内は幽霊船のようにがらんとしていた。言いようのない不安に包まれながら船内を探索している時、一行は、通路の壁に古い写真が掛けられているのを見つける。それはどうやら一行が乗り込んだ船らしかった。その船は「アイオロス」という名前であった。写真の下にその名の由来が記されており、一行の一人がそれを読み上げる。「風の神で、その子はシーシュポス。岩を山に押し上げる苦行を永遠に繰り返した。」別の一人が問う。「何をした罰だ?」そこへ、先に進んでいた別の一人が戻ってきて言う。「死神をだましてこの世に居座ったの。うろ覚えの知識よ。行きましょ。」
と、その時、近くでチャリンと何かが落ちる音が聞える。明らかに一行以外に誰かがいる。その音の方向に一人が向うと、その誰かは立ち去った後であった。そして、その誰かが落としたそれは、果たしてジェスのものであった。キーリングで繋げられた、ジェスの家の鍵と車の鍵と息子の写真を入れたロケットペンダントだった。
・・・・
これ以上は興を削ぐのでここまでとしておくが、勘のいい方ならある程度の察しはついたことだろう。だが、それが分かっていてもこの映画はあなたを決して飽きさせない。見て頂ければすぐに分かることだが、確かに矛盾も多く、突っ込みどころは満載である。だが、伏線の張り方、回収の仕方など非常に巧みで、途中ダレることはなく、最後までハラハラドキドキするのは確実である。(原理的に考えて、タイムリープ、タイムループ、タイムトラベルもので矛盾のまったくないものは不可能であろう。問題は、その矛盾を補って余りある何らかの魅力が、その映画に一体どれほどあるかである。)
ただ、注意して頂きたい。これまで何度も断ったように、この映画は先に私が述べたまさに陰タイプ、しかも第一と第二の混合タイプである。つまり、プロットは非常に巧みで、最後まで飽きさせることはないが、最後の最後、救いがまったくない。文字通り、砂を噛むようなざらざらした気持ちのまま終ってしまう。確かにネットのレビューを見ていても、概して評価はそこそこ高いものの、そこそこ止まりなのは、この映画に低い点をつけている人も多いからで、そういう人は総じて、最後に希望がないことや見終って暗いドヨーンとした気持ちになることを低評価の理由に挙げている印象がある。そこが評価の別れ目、この映画を受け入れられかどうかは、まさに、映画というものに何を求めているかの違いであろう。ある映画レビューサイトで「まぁと@名作探検家」さんという方が40点という低評価をつけていて、「哀しみを駆けるコロネ」と題して次のようなコメントをしていた。非常に印象に残ったのでここに掲載したい。
『私はループものが好きだ。
だが、この映画のループには哀しみしかなかった。
真実を知れば知るほど哀しい。
ループに対して、私の中の勝手なルールとしてはループの中には必ず希望があってほしいし、繰り返す度に脱出に近づいてほしい。
そんな願いがあったのだが、
この作品は全く違った(だからこそ裏切られた気持ちになった)のだ。
通常のループものがドーナツ型だとすると、この映画のループはコロネ型だと思う。
何回も単純に繰り返すものではなく、小さい回転の中を繰り返している様で実は大きな円だったという。
新しいタイプのループになります。
初見で理解しきるのは大変ですので、辛さや哀しみに耐える精神力がある方なら何度か観てみると良いと思います。
間違いなく2回目の方が楽しめるはず!』
(まぁと@名作探検家さん、コメントをここに無断掲載してすみません。コメントして直接お詫びしたかったのですがそのサイトにログインする必要があり、やむなくここで謝罪させて頂きます。ただ、あなたのコメントを批判するためにここに掲げたのではないことをご理解下さい。むしろその逆で、あなたのコメントには非常に感銘を受けました。)
まぁと@名作探検家さんは40点とこの映画には評価こそ低いが、それはまさに私が先ほどいった「映画というものに何を求めているかの違い」故のものであり、彼はこの映画の本質を非常に的確に捉えている。彼は「辛さや哀しみ」と言っているが、それがこの映画の描こうとする本質なのである。。その辛さや哀しみが「辛く哀しい」のは、境遇がジェスのそれとは異なるものの、夥しい量の後侮やら失望やら自己に対する怒りやら苦しみやら哀しみを、それこそ「トライアングル」の有名な衝撃シーンのように、醜く積み重ね折り重ね腐敗させながらループする我々の日常が、あまりにも「トライアングル」に描かれた不条理そのものだからである。日常のループの中の過ちは都合良くリセットされずに「死屍累々」と積み重なっていくのである。それが我々の人生である。それでも我々は生きていく。ジェスが最後、再びヨットに乗り込むように。
もう一つこの映画は、他のタイムループものがほとんど問題にしないテーマを抱えている。それが一つ目のテーマと相伴って、私のゴーストを捉えて離さないのである。それは根源的なアイデンティティの問題。この映画は、アイデンティティそのものに対する不安、その曖昧さをめぐる幾多の誤魔化しに対する罪悪感というか、何かその辺のすっきりしないモヤモヤとした気持ちに対する苛立ちを「やたらと煽る」のである。日本語ポスターのキャッチコピーにもあるように「私が私を殺し続ける」、その2つ目の左右逆の鏡映しの「私」は私なのか、私でないのか…。「トライアングル」で私が私に銃を向けた時、私は一体誰に銃を向けたのか?! 私に襲われる私が、螺旋的にループして、私を襲う私になった時、襲う私と襲われる私は一体他者なのか?自己とみなすべきなのか?最後に私が私を殺した時、私は誰を殺したのか? そもそも、この「私」とは何? 私の世界を映し出す、私の世界の唯一絶対の中心にして、移動するこの視点が「私」というものであるならば、記憶の中の私は私なのか他者なのか?ならば、昨日の私は私なのか他者なのか?この「私」は実体なのか、幻想なのか?