【アーカイブス#27】夢が叶った。ピート・シーガー訪問記 前編 *2011年8月
これまで何度もいろんなところで書いたり喋ったりしているが、ぼくが歌を作って歌い始めたきっかけは、中学の終りか高校に入った頃に、アメリカのフォーク・シンガー、ピート・シーガーのアルバムを聴いて、激しく心を揺さぶられたからだ。そして自分もピート・シーガーのように歌いたい、自分なりにピート・シーガーを目指したいと心に決め、その後も彼が新しいアルバムを出したり、新しい動きをするたび、ずっと追いかけ続けて来た。もちろんピートが日本に歌いに来たときは、必ず足を運んだ。つまりぼくにとってピート・シーガーはいちばんの鑑、大いなる目標、憧れの存在にして、揺るぎなき師で、まさに「グランド・ティーチャー」そのものなのだ。
そのピート・シーガーに今年の6月に会うことができた。ニューヨーク州南東部、ハドソン川沿いのビーコン(Beacon)の街の近くの山の中にある彼のログハウスを訪れ、何と4時間も一緒に時間を過ごすことができた。
自分にとっていちばん憧れの存在で、「グランド・ティーチャー」のピート・シーガーにぼくが会えることになったのは、両国にある東京フォークロア・センターの国崎清秀さんのおかげだ。国崎さんはピート・シーガーとは1960年代の初めから、手紙のやり取りをしたり、50年近く交流があって、今年彼は新年の挨拶の手紙をピートさんに送り、できればお家を訪問したいと書いたところ、ぜひ来てくださいという返事が届いたのだ。
そこで国崎さんはピート・シーガーが中心になって40年ほど前から続けられているクリアウォーター・フェスティバル(正式名称は「Great Hudson River Revival Music & Environmental Festival」)の時期に合わせてピート宅訪問を計画した。
ぼくは国崎さんとは40年以上前、日本のフォークが広がり始めた頃からの知り合いで、ぼくがピート・シーガーの影響を受けて歌い始め、その後もピートの活動をずっと追いかけ続けている、「ピート・命」の人間だということも、国崎さんはちゃんと知っていた。もちろん両国の東京フォークロア・センターでは、1970年代の中頃から何度もライブをやらせてもらってもいた。
何とも嬉しいことに、国崎さんはピートの家に一緒に会いに行きませんかとぼくを誘ってくださった。それが今年の一月の終りか二月の初め頃のことで、二月の終りにぼくらは会って、具体的な計画を練り始めた。ピート・シーガーに会えるなんて、彼のログハウスを訪問できるなんて、ぼくにとっては究極の「Dreams Come True」にほかならない。
ぼくは今年のクリアウォーター・フェスティバルの詳しい情報を調べたり、ニューヨークに住んでいる古くからの友だちのメグこと矢島恵さんに連絡を取ったりし、6月15日に日本を出発して、25日に戻る「ピート・シーガーを訪ねるニューヨーク11日間の旅」の詳細を決めた。ぼくと一緒に親友も行くことになり、航空券やホテル、クリアウォーター・フェスティバルのチケットの手配などを着々と進めていった。国崎さんもほとんど同じ日程で、フォークが大好きな親友と二人の旅の詳細を決め、着いて二日目ぐらいにぼくらはニューヨークで落ち合い、ピート・シーガー訪問の最終的な打ち合わせをすることになった。
6月17日の午後、ぼくらは国崎さんが友人と一緒に泊っているチェルシーのアパートメント・ホテルに行き、国崎さんはピート・シーガーの娘のティンヤさんとそれまでメールでやりとりしていたが、ピートの家の電話番号も持っていたので、その場でメグが電話をかけてみた。何と電話に出たのはピート・シーガー本人で、少し耳が遠いのでメグは話をするのにちょっと大変だったようだが、国崎さんの代わりでメグが電話をかけていることはちゃんと伝わり、翌週にみんなで訪問することもピートさんはわかっていて、とても親切に応じてくれた。後でティンヤさんがメグに電話をかけ、その時に詳しいことを決めることになり、メグはピートさんとの電話を切った。そしてピート宅訪問は6月21日のお昼ということが決まった。
6月18日と19日は、午前11時から夜の9時近くまでハドソン川沿いのクロトン・ポイント・パークで開かれたハドソン・クリアウォーター・フェスティバルを堪能した。炎天にもめげず、強烈な直射日光に耐えながら、ピート・シーガーはもちろんのこと、アーロ・ガスリー、ジョシュ・リッター、ザ・ロウ・アンセム、ザ・クレズマティックス、サラ・ヒックマン、ダー・ウィリアムス、ジェームス・マクマトリーなど、ぼくは見たかったミュージシャンたちのステージを存分に楽しむことができた。
そして6月21日、ピート・シーガーの家を訪ねて、彼に会える日がいよいよやって来た。ピートのログハウスはハドソン川を見下ろすビーコンの山の中にあるので、メグがレンタ・カーを借りてくれ、彼女の運転でそこに向かうことになった。一行は国崎さん、ぼくとぼくの親友、メグの四人で、国崎さんの友人は残念ながら同行しなかった。
ピートの家は住所や番地がなくて、家へと続く道の名前がわかっているだけ。それもほんとうに小さな山道だ。何とかその道を見つけて、山を登って行ったが、どこに家があるのかなかなかわからず、山道をあっちへ行ったりこっちに来たりして、ようやくピートの家に辿り着いた。敷地に入ってすぐのところには、写真やビデオなどで何度も見たことがあるピートが自分でこつこつ建てていったというログハウスがある。
敷地内に車を停めて降りると、奥の方に建てられた新しく大きな家から出て来たのは、何とピート・シーガー本人ではないか。びっくりしてきょとんと立っている四人の前にピートさんは近づいて来て、「Who is Kunizaki?」と声をかける。東京フォークロア・センターの国崎さんと会えるのをピートさんは心から楽しみにしていたようだ。ぼくはといえば、すぐ目の前に憧れの人がいるので、感動と興奮で小さく震え続けていた。
四人の訪問者は新しい家の方に招き入れられ、大きなテーブルの席に案内される。家の中にはピートの娘のティンヤさん、孫のキタマさん、それにピートの仕事のお手伝いをしている女性などがいて、ピートさんは奥さんのトシさんにもぼくらを紹介してくれる。トシさんは体調を少しくずされているようだったが、ピートさんが呼びに行くと一緒に奥の部屋から出て来てくれ、テーブルについて、しばらく話にも加わってくださった。
この日、ピートさんは下ろしたての新しいTシャツを初めて着たようで、胸のところにLというサイズのラベルがまだ付いていた。それをトシさんが見つけて、「あら、こんなのついたままよ」と、それを剥がしてあげたり、ピートさんが自分の後ろに立ったりすると、「わたしは後ろに人に立たれるのがいやなのよ」と言ったり、二人の関係は彼女が主導権を握っているような印象を受ける。ピートさんはトシさんに何を言われても、にこにこと嬉しそうな顔をしていた。
国崎さんはピートさんに会えば聞きたいことがいろいろとあったようで、とりわけトシさんの日本人の父親の太田タカシさん(舞台美術家で柔術の達人でもあったらしい)の故郷の松山に今もいる親戚のこと、そして福島の原発事故のことについてはどうしても聞きたかったようで、テーブルに着くとすぐに具体的な質問をして、「通訳して」とメグさんに頼み込む。ところがピートさんの方でも国崎さんに対して聞きたいことがいっぱいあったようで、国崎さんの質問に対する答はそっちのけで、「東京フォークロア・センターはどんなところ?」、「どんな資料があるの?」、「どんな楽器が置いてあるの?」と、矢継ぎ早に質問をぶつけて来る。
それからはピートさんの独演会という感じで、貴重で興味深いいろんな話を次々と聞かせてくれた。
初めて買ったバンジョーは質屋で5ドルで手に入れたもので、それを持ってウディ・ガスリーと一緒に旅をし、貨物列車に飛び乗ったりしたが、ホーボーの旅に慣れているウディと違って、初心者のピートは貨物列車から飛び降りる時に転んで、バンジョーの上に尻餅をついてそれを壊してしまった話。
フォークウェイズ・レコードが生まれたのは、創始者のモーゼス・アッシュが、父親の小説家で劇作家のショーレム・アッシュ、そしてその父の友人のアルバート・アインシュタインとある夜一緒に話をしていて、まだナチスの動きがよくわかっていなかった時、「ヨーロッパに住んでいるユダヤ人はすぐにそこから離れなければならない」とアンシュタインが語ったのを録音し、その時にモーゼスが人々の動き、人々の歴史、人々が作り出すものを記録として後の世に長く残したいと思ったのがきっかけだったという話。
ウディ・ガスリーがギターのボディに「This Machine Kills Fascist/このマシーンはファシストを壊滅する」と書いているのに影響され、自分もバンジョーのヘッドに「This Machine Surrounds Hate and Forces It To Surrender/このマシーンは憎しみを包み込んで屈服させる」と書いたという話。そして何とピートさんはその文字が書かれた愛器のバンジョーを奥の部屋から取り出して来て、ぼくらの目の前で「Quiet Early Morning」を弾いてくれた。それだけでぼくはもう大感激していたのだが、ピートさんは「弾けるでしょう」と国崎さんにバンジョーを手渡し、ピートのバンジョーに少し触れた国崎さんは、今度はぼくにそのバンジョーを回してくれる。畏れ多くもぼくはピートがずっと弾き続けているバンジョーに触れ、弦も爪弾いてしまったのだ。昇天!!
ぼくらはちょうどお昼時に訪問したので、ピートさんの話が一段落すると、「お腹がすいているでしょう」とティンヤさんが、新鮮な野菜サラダや焼けたばかりのアップルパイを出してくれ、それらをピートさんがみんなのために小皿に取り分けてくださった。食後には何種類もの自家製アイスクリームもごちそうになり、それらもピートさんが「食べなさい」と、取り分けてくださる。
それまでぼくはみんなと一緒にピートさんの興味深い話にじっと耳を傾け続けていたのだが、おいしい食事をごちそうになった後、ようやくぼくは自分の方から彼に話しかけた。(この項続く)