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【アーカイブス#30】どこまでも優しくどこまでもポジティブなグレン・フィリップスは宝物だ!! *2011年12月

 2011年11月、グレン・フィリップス(Glen Phillips)がまたまた日本に歌いにやって来た。ソロのシンガー・ソングライターとなってから彼が初めて日本に歌いにやって来たのは2006年4月のことで、2008年4月に再来日しているので、今回は三年半ぶり、三回目の来日公演ということになる。
 グレン・フィリップスといえば、1990年代に熱心にアメリカのロックを聞いていた人ならきっと誰でも知っているトード・ザ・ウェット・スプロケット(Toad The Wet Sprocket)のヴォーカリストにしてほとんどの作詞を手がけていたソングライターだ(作曲はメンバー全員でやっていた)。トード・ザ・ウェット・スプロケットはアメリカ西海岸のサンタ・バーバラの街で、同じ高校に通う四人の音楽好きが集まって1986年に結成された。ほかのメンバーよりもかなり年下だったグレンは、バンドに参加した時はまだ15か16歳だったはずだ。メンバーの中にはグレンが子供の頃からいつも一緒に遊んでいた幼なじみもいた。

 トード・ザ・ウェット・スプロケットはサンタ・バーバラのクラブにレギュラー出演して、その存在が知られると共に人気も出て来るようになった。結成から二年後の1988年に自主制作でカセット・アルバム『Bread And Circus』を発表すると、カセットは1000枚以上が飛ぶように売れ、噂を聞きつけたレコード会社が何社も彼らのもとにやって来た。そしてリミックスや手直しをまったくせず、カセットの内容とまったく同じかたちでアルバムを出し直したいと申し出たCBS/コロムビアとバンドは契約を交わした。
 1989年の夏にCBS/コロムビアからリリースし直された『Bread And Circus』は、アメリカのカレッジ・チャートの上位に登場し、アルバムからは「One Little Girl」というカレッジ・チャートでのヒット曲も生まれ、トード・ザ・ウェット・スプロケットはサンタ・バーバラの街だけではなく、全米でその存在を知られるバンドとなっていった。
 その後、彼らは1990年に『Pale』、91年に『Fear』、94年に『Dulcinea』、97年に『Coil』と、新たに4枚のスタジオ録音のオリジナル・アルバムを発表した後、1998年7月25日に解散宣言をしてしまう。バンドとして最も勢いがあったのは、1992年頃で、「Walk On The Ocean」、「All I Want」、「Hold Her Down」といったヒット曲が次々と生まれたサード・アルバムの『Fear』は、アメリカで100万枚以上を売り上げるプラチナ・アルバムとなり、ライブも年間275回と信じられない数を精力的にこなしていた。

 トード・ザ・ウェット・スプロケットのアルバムは、日本でもアメリカでの発売とほとんど同じタイミングで当時のCBSソニーからすべて発売されていて、シングルも何枚も出されていた。『Fear』のアメリカでの100万枚には遠く及ばないとしても、日本でもアルバムはそこそこ売れ、多くのファンも生まれて、トード・ザ・ウェット・スプロケットはアメリカのロックが好きな人たちの間ではよく知られる存在になっていたと思う。
『Bread And Circus』の日本盤の帯に「ポストR.E.M.第一候補」と書かれていたことからもわかるように、当時トード・ザ・ウェット・スプロケットはR.E.M.の次の世代の最有力バンドといった注目のされ方をしていた。1995年2月には一般公演ではなくソニー・ミュージックのコンベンションだったが、トード・ザ・ウェット・スプロケットは来日して、渋谷のBEAMで一度だけの来日公演も行っている。

『Bread And Circus』を聞いてたちまちのうちにトード・ザ・ウェット・スプロケットの虜となってしまったぼくは、その後『Fear』、『Dulcinea』、『Coil』の三枚のアルバムのライナー・ノーツや歌詞対訳を手がけさせてもらい、アメリカにも何度か取材に行ったりして、あちこちに彼らのことを書きまくり、一人でも多くの人にこのバンドの素晴らしさをわかってもらいたいと、それこそ口を開けば「トード、トード」と騒ぎまくっていた。
 しかしソロになってからのグレンのアルバムは、三作目の『Winter Pays For Summer』以外は、すべて自主制作のようなかたちでのリリースだったせいもあってか、日本盤としては紹介されず、どの作品も素晴らしい内容だけにそれがとてもとても残念だった。唯一のメジャーからの作品『Winter Pays For Summer』にしてもユニバーサル傘下のロスト・ハイウェイからのリリースで、日本のユニバーサルはいくら素晴らしい歌を作っていてもめちゃくちゃ売れているわけではない良心的シンガー・ソングライターのアルバムの発売にはあまり積極的ではないところなので、それもある意味とても不幸なことだったと言える。

 とはいえトード・ザ・ウェット・スプロケット、グレン・フィリップスといえば、日本の音楽のファンの間でもよく知られている存在だし、しかもグレンは過去の栄光に縋って活動を続けているのではなく、現在進行形で次々と新しい音楽に挑戦している。ところがいわゆる音楽業界というか、「プロフェッショナル」の世界は、アルバム発売に関しても、来日公演の招聘に関しても、グレンにはまったく関心を示そうとはしてくれないようにぼくには思える。
 2006年の初来日からグレン・フィリップスを日本に呼び続けているのは、グレンの音楽が大好きなぼくの親友でミュージシャンを日本に呼ぶことについては完全な「アマチュア」の守田由布さんだ。彼女がいつもグレンと直接メールのやり取りをして、スケジュールやライブ会場選びなど、ひとつずつ具体的に決めていっている。その彼女を信頼して、条件的にかなり厳しいことがあっても、何度も繰り返し日本に歌いにやって来てくれるグレンもほんとうにすごい人だ。

 今年11月のグレン・フィリップスの三度目の日本ツアーは、かなり間近になってから日程が決まったので、11月20日の東京下北沢ラ・カーニャでのライブの日は、すでにぼくは横浜での自分のライブの予定が入ってしまっていた。21日の鎌倉Cafe Goateeでのライブは見に行けるとしても、一回だけじゃあまりにも悲しい、ラ・カーニャも絶対見に行きたい、でもとっくに決まっている自分のライブを今さらキャンセルすることなんてできないと落ち込みつつ悶々としていたら、17日の松山のBar Taxiと18日の大阪のClub Wonderのグレンのライブに「追っかけ」で付いて来てもいいよと守田さんから誘われたのだ。ぎゃーっ!!
 しかも嬉しいというか、恐ろしいというか、何とも光栄なことに、松山の主催者がぜひにと言うことで、グレンの松山公演ではぼくがオープニング・アクトとしてちょっとだけ歌えることになったのだ。うぎゃあー!!

 11月16日、グレン・フィリップスは奥さんのローレルと二人、サンタ・バーバラの家に三人の娘たちを残して、ロサンジェルスから成田へとやって来た。その夜ホテルに到着したグレンたちと、守田さんやCafé Goateeの松本ケイジさん、そしてぼくは近所の天ぷら屋さんに行ってウェルカム・ディナーを楽しんだ。グレンたちは長旅で疲れていたので簡単に切り上げ、その後ぼくはひとりで下北沢のラ・カーニャに流れてお店のクロージング・タイムまでワインをぐびぐび飲んでしまった。
 案の定、翌朝寝過ごしてしまい、何も食べないまま慌てて羽田空港に向かい、グレン夫妻や守田さんと合流して一緒に松山へ。空港にはグレンの松山公演の主催者の梅本さん夫妻が二台の車で迎えに来てくれていて、3時半頃まずはホテルにチェック・インした。ぼくはお腹がぺこぺこで、朝から食べたものはといえば飛行機の中で守田さんにもらった直径4センチほどの天むす一個だけ。水分も機内で出されたシークァーサー・ジュースを一杯飲んだだけだ。
 しばらくして会場のBar TAXIに向かい、グレンもぼくも簡単なサウンド・チェックを済ませると、梅本さんが行きつけのお好み焼きさんへとみんなを連れて行ってくれた。「さあ、五郎さん、飲みましょう」と、すぐに赤ワインのボトルが注文され、浅ましいぼくはお好み焼きが焼ける遥か前に空きっ腹のままワインをがぶがぶ、ぐびぐび。おいしいお好み焼きもしっかり食べたが、とにかくワインをがぶがぶ、ぐびぐび飲んでしまい、一旦ホテルに戻る頃にはぼくはすっかり出来上がってしまっていた。

 Bar TAXIでのグレンのライブの開演時間は8時で、最初にぼくが15分か20分ほどやることになっていた。「それでは7時半頃に会場で」ということでみんなと別れ、部屋に戻ったぼくはそのまますぐにベッドに横になり、気がつくとぐっすり眠ってしまったらしい。
 目が覚めて最初に思ったのは、「あれっ、今日の打ち上げはどこに行ったんだっけ? 随分飲んだなあ。どうやって帰って来たんだっけ?」ということだった。しかしいくら考えてもどこへ行って、どうやってホテルに戻って来たのか思い出せない。まったく思い出せなくて、「あれっ、どうしちゃったんだろう」と記憶喪失になってしまったのかと恐ろしくなった時、まだライブが始まっていなかったことに初めて気づいた。
 慌てて携帯電話で時間を確かめてみると、8時ちょうど!! 大慌てでホテルの部屋を飛び出し、思いきり走って3分ほどでBar TAXIのあるビルに着き、エレベーターで5階に昇り、お店に入って2分後にぼくはギターを抱えて最初の歌を歌っていた。あのまま目を覚ましていなかったら、いったいどうなっていたことだろう。ぎゃぎゃぎゃあー!!

 余計なことをごちゃごちゃと書いてしまった。すみません。松山のBar TAXIの夜、ぼくはラブ・ソングの「言わなくてもいいよ」とメッセージ・ソングの「一台のリヤカーが立ち向かう」の二曲を歌わせてもらい、すぐにもグレン・フィリップスのステージになった。
 今回グレンはギターを持って来ていなくて、松山の主催者が用意してくれていたギルドのアコーステック・ギターを抱え、トード・ザ・ウェット・スプロケット時代の人気曲やソロになってからの代表曲の数々、それにカバー曲などを次々と歌って行った。グレンは2008年10月に友だちの家でガラスのテーブルに座っていたところ、そのテーブルが壊れて左手を大怪我し、損傷した尺骨神経や筋肉の手術をして、しばらくはギターが弾けなかった。今も完治したわけではなく、左の腕や左手の指がうまく動かなかったりするそうだが、それでも巧みで力強いギターの弾き語りで90分たっぷりと持ち歌を聞かせてくれた。
 これまでとまったく変わることのない誠実で優しく、鋭く逞しく、ポジティブでひたむきで、時にはきついユーモアにも満ちた彼の歌はほんとうに素晴らしい。歌も人柄もここまで「純粋」なミュージシャンはほんとうに稀有な存在だと、ぼくはBar TAXIで主催者の梅本さんから今年のボージョレー・ヌーボーのボトルをごちそうになりながら(まだ飲むのか!!)、グレンの歌に心を揺さぶられ続けていた。

 この夜は、グレンがアンコールで歌ったポール・サイモンのカバーの「American Tune」と2005年のソロ・アルバム『Winter Pays For Summer』のラストに入っている「Don’t Need Anything」がとりわけ素晴らしかった。
「草花が育つ庭/穏やかな日々/清潔なシーツ/お皿に盛られた食事/呼べば力を貸してくれる友だち/何もいらない/自分が持っていないものは/自分が今手にしているものだけあればそれでいい」と歌いだされる「Don’t Need Anything」は、トード・ザ・ウェット・スプロケットやグレンの数多くの歌の中でも、トード時代の「I Will Not Take These Things For Granted」と並んでぼくが最も好きなものだ。この夜、彼は三番の「大水が平野に襲いかかり/町を押し流しても/愛している人がそばにいてくれたら/それで十分だ」というところで、突然声を詰まらせ、感極まってちょっと歌えなくなってしまった。ライブの後、「どうして泣いてしまったの?」とグレンに尋ねると、「東北の地震の被害にあった人たちのことを思ってしまって」と、正直に答えてくれた。

 松山だけでなく、翌18日の大阪心斎橋Club Wonder、21日の鎌倉Café Goateeと、ぼくは今回のグレンの日本ツアーのライブを三回も見ることができた。全部ほんとうに素晴らしく、毎回違った曲も飛び出し、最終日のCafé Goateeは、馴染みの場所、いちばん狭い会場、とても親密な雰囲気ということもあって、どこよりも長く、そして楽しそうにグレンは演奏し、ステーィービー・ワンダーの「Sir Duke」のカバーまで飛び出したのにはびっくりしてしまった。
 それにしても、それにしてもと、ぼくはどうしても思わずにはいられない。アルバムにしても、来日公演にしても、いわゆる「プロフェッショナル」と呼ばれる人たちは、どうしてこんなにも素晴らしいミュージシャンを相手にしようとしないのだろう。その答はきっとひとつで、ぼくにはそれがよくわかっているのだが、それはここでは書かないようにしよう。

 ぼくが行った松山のBar TAXIは30人ほど、大阪のClub Wonderは25人ほど、そして鎌倉のCafé Goateeは30人ほどの人たちがグレンのライブを見に来てくれていた。ぼくが行けなかった下北沢のラ・カーニャは満員でソールド・アウトだったと聞いたので、恐らく定員の70人ほどの人たちがやって来たのだろう。
 それにしても四回の公演を合計してもたった160人ほどというのはほんとうに寂しい。90年代にトード・ザ・ウェット・スプロケットに夢中になっていた多くの人たちはいったいどこに行ってしまったのだろう。音楽なしでは生きてはいけないと、トードの歌に、グレンの歌にしっかりと寄り添っていた人たちはもっともっとたくさんいたはずだ。そういう人たちは今もたくさんいるとぼくは信じて疑わない。
 こんな宝物のようなシンガーが、日本に歌いにやって来てくれているのに、たった160人の人たちにしか聞いてもらえないというのは、ほんとうに残念だし、とても寂しい。そのライブがあまりにも素晴らしいだけに、その悔しさはひとしおだ。
 だからといってあれこれと戦略を練ったり、動員のことばかり考えても始まらないだろう。守田さんもきっとそう考えているはずだ。でも今度グレンが日本に歌いに来てくれる時は、せめて今回の倍の人たちがライブに来てほしい。そうやってじわじわと広がっていくのがいちばんいい。そういう確実な広がり方をすれば、もう二度と小さくなったりはしないのだから。

 最後にグレン・フィリップスは、滞在費や経費を引いた今回の日本ツアーでの収益を東日本大震災の被災者を支援する団体に寄付して帰って行ったことをお伝えしておこう。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html


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