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このままの自分でいい、弱い自分のままでいいという道の途中

揺れ動きながら日々歩んでいる

昨日noteにぐちゃぐちゃな1日を書いてみて、その後はスマホのメモ帳に、音声入力してそのまましゃべってみた。

こんな体感(息苦しさとか)は辛い、病気でいることがやっぱりつらい、苦しい、変わりたい、もう病気でいたくない。そんな気持ちがわーっと次々に出てきた。

ひとしきり出してみて、やっぱり思ったのは「焦っていたな」ということ。「病気は悪いものじゃない」と思おうという頑張りが昨日は出てしまったけれど、少し回復してくると焦ってしまうことがよくある。

そのままの気持ちを感じてみる、書いたり伝えてみたりする、ということをはじめて「あぁこんな自分も居てもいいんだな」とほっとしたりして

それでももちろん色んな調子、色んな自分が日々出て来るから、「これで本当にパニックが治っていくのだろうか」と不安になったり、「病気を治したい」という渇望・焦りが生まれてきたりもする。

そんな時は、自分ひとりで「ホッとする」というのがいかに難しいかを昨日は身に染みた。同じような悩みを抱えている人、抱えてきた人、一緒に回復していく仲間、そのまま毒を吐ける場所。そういう「誰かの存在」がやっぱり必要なんだ。


同じような悩みを抱えてきた、誰かの存在が必要 - ADHD/ASD/HSP

ここ1〜2週間ほど自分を知るということをやってみて、やっぱり揺れながら歩む道の中では「誰かの存在が必要(パートナー以外の)」というのが今日の自分の感じていること。

そして、今私が「誰かの存在」として思いがけず出てきたのが、Twitterでおすすめとして紹介されるアカウントだ。

まず、ADHD/ASD/系の人のアカウント。

「弱いままでいいと思ったら楽になった」とか、「放置した食品にカビが生えたらジブリぽくてかわいいと思うようにしてる」「食器やフライパンごと捨てたことがある」「部屋のものがひっくりかえってる」「免許更新忘れる」「いつも何かを探してる」「PMS期は死にたくなる、衝動が増す、鬱になる」「人が家に来る時は異常に片付けてしまう」「ASDは思ったことを口に出してしまうから辛いという解説を良くみるが、実際には思ったことを口に出してはいけないという圧力が生きづらさの本質だと思う」などなど

あるあるを見ているだけで、あぁ「これが当たり前」っていう人が、世の中で少数だとしてもいるんだ、という安心感がすごくあった。「ジブリ」のくだりなんて、ポップに捉えられていることにクスっとしてしまう。

HSPも、ネット上にある診断なんかをやると、かなり100に近いスコアが出て来る。どうしても「傷つきやすいことは良く無いこと」「傷つかない自分にならないと」「図太くならないと」ってやってきたけど、そのままでいいんだなという1つの指標にもなる。

ちなみに、ADHD/ASD/HSP的な話は、本当にごく少数の信頼できる人、同じことに悩んできた人にしか話したことがない。「発達障害なんで」的なことを公表して、逆にワガママをただ通そう(人をコントロール)としている人も多く見受けられるし、気軽に「あなたはそう(発達障害に)見えない」と言ってくる人もいて、それもすごくストレスだから。

言ってみれば、本当はそうなのに、そう見えないように生きているから二次障害と言われるパニックが出たりしている。外からもそう見える人は「自分の性質にOKを出す」プロセスを通ってそこにいるわけだし。本当に助けが必要なのは「そう見えない人」なんじゃないかな。

どちらにしても、ADHD/ASD/HSPであるという認識を、他者をコントロールするために使うのではなくて、「自分はこのままでいいんだ」という「当たり前の書き換え」に使えるのならば、それを自分で認めること、そういう同じ悩みを抱えている人の存在は、本当に助けになる。


同じような悩みを抱えてきた、誰かの存在が必要 - 自助グループ

そして、Twitterでおすすめとして紹介されたアカウントとして、もうひとつ心に響いたのが高知東生氏のTwitter。そこにあったのは、やっぱり何年も自助グループに出続けて、色んな葛藤を経て、少しずつ自分の外と内の顔が一致していっているという安堵感みたいなもの。仲間の大事さ。

そして、選ばれている表現は、当事者だからこそ、そこを通ってきたからこそ繊細な言葉を選んでいるなという印象だった。

私は自助グループには参加したことがないけれど、斎藤学氏の本やセラピストの方から話を聞いて、そういうものがあることを知った。

高知氏のツイートを見ると、自助グループに参加し始めて、最初は「自分を同じにしないで欲しい」なんていう葛藤も出たりしつつも、何年も通い続けて、自分のことを吐露できるようになった、と。

「言いっぱなし聴きっぱなし」というものが、「いい人間でいる」ということから降りていくこと、パワーゲームから降りることにどれほど助けになるかというのがツイートからも感じられたし、何よりその道を通った人は、他者への目線も本質的で愛があるのだなと感じた。

「いい自分」を見せる場ではななく、「どんな自分も出せる場所」。それがあるからこそ、生きていけるというくらいに、対話の場は求められていると感じる。

今の私にも必要なので、まずは参加者として参加し続けてみて、いつかそういう場を自分でも開いていきたい。


弱い自分のまま生きられる道の途中

今朝、ひとつ前のところまで書き終えたところで、パートナーとの痛いやり取りがあった。(出したものをなんで片付けないの?というささいな話なのだけど)

普段なら、まず相手目線になって、ニコっと笑って大丈夫なふりをしていたけれど、今日は「私はそれはできない」「自分のペースでやらせて欲しい」「あなたから見て大したこと無いことが、私にとっては大きな壁で、もう自分をいじめたくない」というようなことを言ってしまった。

パートナーからすれば、全部を言っているわけでもなく我慢もしていて、笑いも交えて伝える努力をしてくれていて、伝えないでいることも自分を殺すことなので、その加減を探っていてくれている。

そんなこんなで、相手は「言ってくれるな」という風にとってしまったようで、ものすごく不機嫌に。私も言えたからと言ってすっきりするわけでもなく、やっぱり自分が悪いのかも、なんて葛藤が始まってしまった。

そんなタイミングで、お世話になっている方とメッセージのやり取りがあって、その内容がすごく本質的で、信頼の中で伝えてもらったことを感じて。わーーっと自分の違和感の中だけに入り込んでいたことにハッとさせてもらった。そして、ロールプレイングゲームのような視点で面白がるということなど。

そして、フラストレーションとの隙間が少し生まれたことを感じた。

その後のタイミングでパートナーから「言いっぱなし聴きっぱなしをやろうか」と声がかかり、やってみることに。

お互いに「いい人」だけじゃない部分での対話なので、生々しい相手の想いなんかも出てきて、足がガクガクと震えてしまったりもしたし、

途中まで凛としていた自分が、相手の話を聞いて「自分がやっぱり悪いのかも」と責め始めると一気にエネルギーが縮こまっていくのも、「わぁ、こうやって縮こまっていくのね」と眺めている人も自分の中に出ていた。ギリギリではあったけど。笑

とにもかくにも、1日にしては濃かった。朝からここまでぐちゃぐちゃに色んなこともあありつつも、色んな助けをもらいながら、今日という日を精一杯に生きられた、という清々しさもある。そして「自分という存在の味方でいたい」「自分を自分はわかってあげたい」という想いにほんの少し近づいたような感覚もある。

弱い自分のまま生きる、という道の始まりに立って右往左往しているけれど、それでも、取り繕って自分を殺して生きるより幸せだ。



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