ひかりに向かって生きる
「スヨンと同じ病気で、視神経は機能しています。昼か夜かは分かるので幸せです」
とある映画を観ている時、この台詞に何故か込み上げてくるものがあった。
目から日本語の字幕が、耳から数少ない知っている韓国語の単語が入ってくる。へんぼっけよ。最後の単語がしっかり聞こえた。
私たちは、光に向かって生きている。昼か夜かが分かるから幸せだと、簡単な自己紹介の場でさらっと言える、そんな鮮やかで深い心を持つ人でいられるだろうか、もしも視力を失っても。
행복해요. (へんぼっけよ)という言葉が好きだ。日本語の「幸せです」よりも、より幸福を噛み締めているような響きを感じる。ひだまり、ふかふか、ほんのり。「はひふへほ」から始まる響きの言葉は柔らかくてまるい。私はそれらの言葉を聞くとき、いつも白くて丸いはんぺんをイメージする。
「しあわせはいつも自分のこころがきめる」という有名なフレーズを物心ついた頃から知っているはずなのに、しあわせを決めるこころを持つことはいつも難しい。いつも誰かと何かと競い、追われ、勝ち負けにこだわり、欲を満たすための努力をし、結果に一喜一憂する。そんなハングリーな日々はつらいけれど刺激的で楽しくもある。だけどいつもどこかで「安心したい」「幸せになりたい」と思っている。毎晩安心して眠ることができる家と布団があり、幸せなはずなのに、だ。
素直に生きるってなんだろうと長いあいだ問いかけている。好きなご飯をお腹いっぱいに食べることも、好きな人に好きだと愛を伝えることも、なりたい自分になるために夢を叶える努力をすることも、「素直に生きること」だと言われればそうだと思う。だけど、私が言いたいのはそういう「素直」ではなくて、素敵な言葉に出会った時に忘れないように心の中で反芻してみることだったり、晴れた日に空に向かって大きく伸びをして深呼吸したくなったり、心が揺れる音楽を聴いてつい涙を流してしまったりするような「素直」だ。人混みの中で誰にもぶつからないようにということだけを考えながら歩いていると、忘れてしまう感覚がたくさんある。
忘れたくないことはなんですか。覚えていたいことはなんですか。もしも五感のうちのどれかを失ってしまったら。
生き物は、光に向かって生きている。ひかり。は行で始まるこの単語も、当たり前のように柔らかくてまるい。
ゆっくりしていってね